私を今の人生に導いたのは、一冊の本でした。佐藤青南先生の、『ある少女にまつわる殺人の告白』。あの本を読んでいなければ、私の人生は、もっと平坦な道だったかもしれません。
子どもは宝。この世にある中で何よりも大切なもの。私は、それを当然のことだと思っていました。子どもが成長して未来をつくっていく。子どもが生まれたその瞬間、私たちは舞台のスポットライトから外れ、主役が子どもたちに切り替わるのだと。
だからこそ、子どもたちの相手をしている時間は私にとっての至福でした。もちろん、大変なことではありますが、それすらも幸せに感じていたのです。
あのふくふくとした大福もちみたいな顔。こちらをじっと見つめてくる大きな丸い目。甲高い泣き声。予測できない奔放な行動。小さな手のひら。何もかもが、愛おしくてたまらないんです。そして、それは誰もが抱いているものだと、私は思い込んでいました。
ですが、そうではないんですよね。哀しいかな、この世の中には、本来ならば子どもを守るべき親が、子どもを傷つけてしまうということが、起こってしまっています。
もちろん、親も人間です。子守の疲れや仕事、人間関係のストレスなどを感じることもあるでしょう。それを子どもにぶつけてしまう、なんてことも。
自分勝手な理由で子どもをモノのように扱う人もいます。子どもの意思をまるで無視して自分の理想を押し付けたり、子どもの世話をまったく放棄したり。
あるいは、そうした子どもの親となる人もまた、かつて虐待を受けていたのかもしれません。彼らは世にいう根っからの悪人というわけではありません。子どもの愛し方を、自分もまた親から与えられた「暴力」という形しか知らないのです。
『ある少女にまつわる殺人の告白』は、そんな虐待が生み出す悲劇を実感させてくれる、そんな一冊でした。物語は児童相談所の所長のインタビューから始まります。
この作品は、彼のインタビューと、「ある少女」にまつわる人物たちのインタビューをかけ合わせる形でつくられています。ちょっと変わったつくりですよね。
その少女の名前を、長峰亜紀といいます。彼女はある時、交通事故で病院に搬送されました。しかし、彼女の身体には、事故でできた傷とは思えない、不可解な点がいくつもあったのです。
実は、彼女は母親が交際している男性、杉本から暴行を受けていました。そのことを知った児童相談所の所長、隈部は、彼女を保護しようと奔走します。
読んでいて楽しい作品ではありません。むしろ、胸が痛くなるほど苦しく不快な作品でした。だからこそ、その物語は私の心に深く刻まれたのです。
母親すらも助けてくれない、そんな状況に置かれた亜紀ちゃんの苦しみは、どれほどだったでしょう。想像するだけでも痛々しい。執拗に彼女に執着して追いかけてくる杉本の描写は、何度読んでも恐ろしく、ぞっとします。
彼女を、助けたい。彼女のような、苦しんでいる子どもたちを。読みながら、私はそう思ったのです。私は私のしたことを間違っているとは思いません。間違っているのは、彼女たちを救うことすらできない社会そのものです。
ところで、『ある少女にまつわる殺人の告白』というタイトル。誰が、誰の命を奪ったのだと思いますか? この作品が描くのは、ひとりの少女の悲劇、ではないのですよ。
暴力は連鎖します。虐待は、さらなる虐待を。それは受け継がれていく「教育」のひとつの形になってしまった。この物語が本当に伝えたい悲劇は、そんなどうしようもない「現実」にあるのだと思います。
最後に、ひとつだけ。所長がした選択は、たしかに間違っているのかもしれません。もうひとつの選択の先には、別の未来があったかも。でも、きっと、私も彼と同じ選択をするでしょうね。あなたは、どうですか?
長峰亜紀
いやあ、どうもどうも、わざわざ遠いところからお越しくださったていうとに、お待たせしてしもうてすいませんでした。これはどうもご丁寧に。ちょっと待ってください、私も名刺ば……所長の隈部です。よろしくお願いします。
少し外が騒がしいかもしれませんが、どうかご容赦ください。なにせ子どもたちは敷地の外に出ることもできないもんですけん。ええ、そうです。一時保護所にいる子どもたちの外出は、極端に制限されることになります。
そいでもやはり、自由な外出を許可するわけにはいかんとです。私たち児童相談所の職員は、ときには保護者から無理やり子どもを引き離すこともありますでしょう。
虐待を受けて一時保護された子どもを、通学路で待ち伏せた保護者が連れ帰ることだってあるとですよ。そうなった場合、子どもの生命に危険が及ぶことになります。
亜紀ちゃんの話……でしたね。ええ、もちろん覚えとります。長峰亜紀ちゃんですね。それほど長い付き合いではありませんでしたが、しっかりと。わかりました、お話しましょう……亜紀ちゃんについて。
初夏でした。当時、私は三十八歳でした。児童相談所の所長に就任してから一年が過ぎ、ようやっと軌道に乗り始めたころです。
デスクの上の電話が鳴ったとは、汗をかいたグラスの麦茶が半分ほどになったころでしょうか。
「よお、久しぶり」
「相良か」
相良は大学時代の同期です。相良が勤務する〈愛施会琴海病院〉は、二百近くの病床を持つ総合病院です。今は病院長として着実に理事長への階段を上っとります。
「なあ、隈部よ、そっちからひとり、職員を派遣してもらえんやろうか」
「えっ」
「アビューズだい、たぶん……いや、間違いなか、アビューズだ」
思いがけない申し出に、私は喉に言葉をつっかえさせました。アビューズとは虐待を意味する医学用語です。
「昨日の夕方、交通事故に遭うた患者が救急に搬送されてきたったい。小学校四年生の女の子だ。幸いなことに、事故による怪我自体はたいしたことがなかったとけどな。ただ、骨折が数箇所、見つかった。両腕の前腕部は、おそらく剥離骨折が自然治癒した痕やろう」
「多発性骨折か」
多発性骨折は児童虐待を発見するうえで重要な所見です。中でも両腕の剥離骨折は、児童虐待を特定する際には最大の決め手となります。
「そういうわけで、おまえに電話したっちゅうわけさ。どがんやろ、誰か派遣してくれんかね?」
「わかった。おいが行く」
電話を切るとすぐにデスクの抽斗を開け、公用車のマーチのキーを手に取りました。
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