おそるおそるフラスコを傾けて、中で揺れている透き通った液体を試験管の中に流し込む。
すると、試験管の中にあった液体が次第に色を変え、鮮やかな青紫色に染まっていった。
その塩梅を見ながら、液体の量を調整する。多すぎてもいけないが、少なすぎてもいけない。それはもう、グラムの世界である。
やがて液体がきれいな紫色に染まったところで、フラスコを戻す。よし、上手くいった。ふうと安堵のため息を吐く。
「先輩、調子はどうですか」
「うわ、あ、ああ、うん、上々だよ」
かけられた声に、私は思わず飛び上がるほどに驚いた。見ると、いつの間に入ってきたのか、研究室の後輩が私のそばに立っていた。
「おぉ、すごいですね。さすがは先輩です。この反応出すのって難しいんですよね?」
彼女は私の手元の試験官を眺めて感嘆の声を上げた。称賛に満ちた視線で見つめられて、私の心臓がもう一度跳ねる。
「あ、えっと、うん。そうなんだ。でも、ようやく上手くいきそうだよ。やっぱりこの薬品の量を増やしたのは正解だった」
ああ、また、だ。自分の声が裏返ったように高くなる。身体から汗が噴き出た。顔が熱くなり、彼女の顔をまっすぐに見れない。
どもってしまったことでさらに悪化する。そうして、またどもって。その繰り返しだ。彼女と話すときの私はいつもそんな感じだった。
もともと、この研究室には私以外には誰もいなかった。教授は指導よりも自分の研究に熱心な人で、研究室にいないことも多い。
だから、実質的に私は研究室を独占できて、今まで好き勝手に研究ができていたのだが、そこに突然入ってきたのが彼女だった。
とはいえ、彼女が来てしまったことで私だけの研究室ではなくなってしまったという厭味に思ったわけではない。
むしろ、逆だといえよう。
彼女は小柄で華奢な黒髪の女性だった。ともすれば高校生どころか中学生にすら見えるほどで、美人というわけではないが、かわいらしい。
彼女と話しているだけで、私の動悸は激しくなり、一度とて彼女と上手く話せたことはない。
彼女と話すときは彼女の顔を正面から見れなかった。私はいつも彼女の斜め右後ろを見るようにしている。
つまるところ、私は彼女に、恋をしてしまったようなのだ。
どちらを選ぶ?
昔から女性は苦手だった。幼い頃に女子からいじめられていたのが起因しているのかもしれない。
年を経るごとにその苦手意識は強くなっていったが、同時に男として抱く女性に対する憧れも増していった。
化学の道にのめり込んでいったのも、そんな自分への逃避だったのかもしれない。
自分は女性になんて興味がありませんというポーズを散々気取って、カップルたちに妬みの視線を向けていた。
その結果として、私は自分の演じていたポーズの通りに女性と縁のない人生を送ってくることになった。彼女どころか、女子とまともに話したことすらほとんどない。
そんな女性経験ゼロの私にとって、彼女はまさしく初恋である。一目惚れからの初恋であった。
ああ、こんなことなら、もっと女性と上手く話せるように慣れておけばよかった。なんて、今さら思ってももう遅い。
彼女に良いところを見せたいと思う。しかし、彼女がそこにいると考えただけで、私の手元は震え、失敗がかさむ。
かつては教授から褒められていた私だったのだが、失敗を繰り返すたびにその視線に失望が混じり始めたのがわかる。
だが、どうにもならなかった。恋なんて知らなければ、こんな苦悩することもなかったのではないだろうか。
「先輩、お昼にしません? なんなら奢られてあげてもいいですよ」
だけど、本来なら腹が立つような彼女の言葉にすらも、幸せに感じてしまうのだから、恋なんて本当に、するもんじゃないなと思うのである。
化学オタクの理系男子の初恋と代償
ヒマつぶしにウィキペディアの『プランクスタリン』のページを見ていると、突然、ひよこの鳴き声が聞こえてきた。
ひよこの形をしたタイマーを止めてから、局所排気装置に向かう。一時間前に仕込んだ反応のチェックをする時間だ。
一日に何十回と行う、いつも通りの作業を繰り返す。僕は硫酸ナトリウムの粒が散らばった実験台に肘をついて、溶媒が染みこんでいく様子をぼんやりと見つめた。
ほら、やっぱり失敗だ。僕はうんざりしながら、TLC板を足元のガラス捨てに投げ入れた。
実験ノートに記入して、帰宅の用意を手早く済ませる。実験をしているのは、随分前から、僕ひとりだけになっていた。
外に出てみると、構内のアスファルトが黒く濡れていた。ちょっと前に雨が降ったらしく、湿気を含んだ冷ややかな秋の夜気が周囲に漂っている。
暗い路面をじっと見ていると、自然とプランクスタリンの構造式が浮かんでくる。すでに何百回と通った思考をなぞって、ひとつの合成ルートを導き出す。
プランクスタリンの全合成に着手してから一か月。何度も実験をして試しているが、このルートでは、これっぽっちもうまくいかないのだ。
車一台分の幅しかない細い道を一分ほど歩くと、僕が下宿しているアパートが見えてくる。部屋に入った時、嗅ぎ慣れない香りを感じた。
そっと後ろ手にドアを閉めた瞬間、部屋の蛍光灯が突然点灯した。眩しさで反射的に目を閉じた僕は、女性の声を聞いた。
ゆっくり目を開くと、部屋の中央、潰れた布団の上に、背の高い女性が仁王立ちしているのが見えた。
彼女はカロンと名乗った。彼女の足は畳から数センチばかり浮いていた。本能的に理解した。彼女は、人間じゃない。
「キミは、自分の能力を取り戻したいと思ってる?」
心臓がびくんと跳ねた。――この人は、あの力のことを知っているのか。
何をされるんだろう、と思った次の瞬間、カロンの指が僕の額に突き刺さっていた。
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