八十分。人生のうちで、その時間はほんのわずかでしかないのでしょうけれど、私にはとても大切な時間だったのです。
「君、『博士の愛した数式』という作品を、読んだことはあるかい?」
話しかけてきたのは、見知らぬ老人でした。けれど、不思議と警戒心を抱かなかったのは、彼の瞳が穏やかで、理知的であったからでしょう。
彼の問いに対しては、首を横に振って答えます。私は本を読むことが、あまり好きではありませんでした。
「どんな話なんですか?」
私がそう聞いたのは、彼がそう聞いてほしそうだと、私が思ったからです。果たしてその通り、彼は嬉しそうに私の隣りに、失礼するよ、といって腰かけました。
主人公はひとりの息子を持つシングルマザーの家政婦。彼女はとある家に、家政婦として派遣されたのです。
そこは、すでに何人かの家政婦が勤めてきてはやめていくような家でした。彼女は覚悟を持ってその家を訪れます。
応対してくれたのは未亡人の女性でした。彼女からは、離れに住んでいるという義弟の面倒を見てほしいと伝えられます。
義弟は障害を抱えていました。かつては数学者として名を馳せていたのですが、事故によって記憶が蓄積しなくなったのだそうです。
八十分。それが彼の記憶が持つ限界でした。
そういったことを聞かされて、彼女はとうとう博士と相対します。博士からは、挨拶の代わりに靴のサイズを聞かれて、彼女は面食らうのです。
メモ帳を身体中に貼り付け、ことあるごとに数字について語り、人混みを嫌う、紛うことなき変人。
しかし、彼は、野球選手の江夏のファンで、数字を愛し、そしてなにより幼い子どもを愛する愛情深い老人だったのです。
彼に言われて連れてくるようになった息子を、彼はルートと呼んで慈しみ、ルートもまた、彼を慕うようになりました。
私と、博士と、ルート。三人で過ごす穏やかな時間は、ただ静かに、過ぎていくのです。
「『実生活の役に立たないからこそ、数学の秩序は美しいのさ』」
これは僕が一番好きな言葉なんだけれどね。老人は、博士の言葉だというそれを諳んじました。
「僕は若い頃、会社に人生を捧げていたんだ。出世して、より多くの給料を懐に入れることが、僕にとっての全てだった」
老人は懐かしむように目を細めました。
「数字は給与明細に書かれているものと、会社の利益だけだった。それ以外を学ぶ必要はなかったし、それさえできれば十分だったんだ」
だけど、仕事を定年退職して、亡くなった妻が好きだったこの本を読んで、僕は目が覚めるような思いをしたんだ。
「オイラーだとか、フェルマーだとか、そんなものを知らなくても生きていくことはできる。だけど、本当に美しいものは、寄り道しないと決して見つからないんだよ」
これは、君に貸してあげよう。老人はそう言って、私の手に『博士の愛した数式』を渡しました。彼は静かな笑みを浮かべて、言います。
「いつか必ず返してもらいに行くよ。だから、それまで持っていてくれ」
遠い記憶の彼方に
何か、心に空白があるかのようでした。何かを忘れているような、そんな不安定なざわめきが、いつだって私の心を揺らしていました。
その疑問の中心には一冊の本がありました。『博士の愛した数式』。それがその本のタイトルでした。
気がつけば持っていたその本に、私は首を傾げました。元来、本は読みませんし、買ったという覚えもありませんでした。
だから、読んでみたのは、ほんの気まぐれでしかありませんでした。あるからには、読むために手に入れたのだろうと考えたからです。
シングルマザーの私と、息子のルート、そして数字と子どもを何より愛する博士。
三人で過ごす平穏な時間。美しい文章で綴られるその透明で優しい物語の底には、どことなく漂う切なさと、寂寥と、不安感が横たわっておりました。
その平穏な時間は少しでもつつけば壊れてしまうような、あまりにも繊細な針の上に辛うじて成り立っている奇跡のようなもの。
私が。ルートが。博士が。誰かが何かをしてしまうと、取り返しもないほど崩れてしまいかねないような、そんな危うさを私は感じました。
八十分。それは、ほんのわずかな時間でしかないのでしょう。気を抜いているとあっという間に過ぎていくような、刹那でしかありません。
けれど、彼らにとってその八十分はとても意味がある時間で、彼らはその時間を博士と過ごすために、それぞれの八十分を宝物のように大切にしたのです。
私は八十分を大切にできていたでしょうか。自分の時間を、私はあまりにもおざなりに扱ってきました。
頭の中に、もう私の八十分は残っていませんでした。そして、次の八十分が始まる頃には、大切にしようとしていた現在も消えてしまうでしょう。
何かを忘れているような気がしたのです。けれど、それがどうしても思い出せないのです。
私はふと、棚の上に飾られた写真立てを見つめました。埃を被った色褪せた写真には、私とひとりの老人が写っていました。
彼は誰だろう。私には思い出せませんでした。けれど、彼とはどこかで会ったような気がするのです。消えてしまった八十分のコマのどこかに、彼がいるような気がしてならないのです。
数学が織りなす美しくて切ない物語
彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。息子の頭のてっぺんが、ルート記号のようにまっ平らだったからだ。
私と息子が博士から教わった数えきれない事柄の中で、ルートの意味は、重要な地位を占める。
数学の証明に使われたもっとも大きな数や、無限を超える数学的観念についても教わったが、そうしたものをいくら動員しても、博士と一緒に過ごした時間の密度には釣り合わない。
いつどんな場合でも、博士が私たちに求めるのは正解だけではなかった。苦し紛れに突拍子もない間違いを犯した時の方が、むしろ喜んだ。そこから元々の問題を凌ぐ新たな問題が発生すると、なお一層喜んだ。
彼には正しい間違いというものについての独自のセンスがあり、いくら考えても正解を出せないでいる時こそ、私たちに自信を与えることができた。
博士は決して急かさなかった。じっと考え続ける私と息子の顔を見つめるのを、何よりも愛した。
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