ほとんど同じ、けれど、少しずつ違っている『1Q84』村上春樹


「私たちは今、この世界にたしかに生きている、という疑いようのない確証を、果たして君は持っているのか」

 

 

 あれはいつのことだったか、木漏れ日の差す廃墟の中で、彼女はそんなことを独白するように言った。その表情には、どこか歪な笑みが浮かんでいた。

 

 

 私は彼女の言葉に返すこともなく、ただ黙って聞いていた。私と彼女の会話は、いつもそうだった。

 

 

「たとえば、以前いたところとまったく同じ世界に、私たちは移動させられているのだと、したら」

 

 

 彼女はそう問うように、私に問いかけた。答えない私の表情を見つめる彼女の瞳は、私の沈黙から何かを取り出そうとしているかのようだった。

 

 

 聞かされた時、私の頭の中にひとりの巨人が現れる。逞しい厚い胸板を持った巨漢であったが、荒々しい雰囲気は感じ取れない。

 

 

 彼の前には二つのジオラマがある。山、木、海、都市、人、この世のあらゆるものを、世界を模倣したジオラマだ。

 

 

 巨人はそのジオラマを愚鈍に見比べて、ふと、何かを思いついたかのように、手を伸ばしてひとつの人形を指先でつまみ上げる。

 

 

 それは私にそっくりの人形だった。彼はそれを風貌に似合わない繊細な手つきで、もう片方のジオラマに移した。私が気がつかないように、そっと。

 

 

「村上春樹先生の『1Q84』を、君は読んだことがあるかな?」

 

 

 私は首を横に振る。村上春樹先生の本は読んだことがあったが、どうにも得意ではなかった。

 

 

 普通の小説ならば一時間かそこらで一冊読み終わるのが、先生の本だけは何時間もかけなければ読むことができなかった。

 

 

「『1Q84』は青豆という女性と、天吾という青年を中心に描かれる。二人はそれぞれ、二つの月が浮かぶパラレルワールドに行ってしまうことになるんだ」

 

 

 青豆はそれを1984年になぞらえて『1Q84』と呼び、天吾はふかえりという少女の『空気さなぎ』という小説の中で描かれた世界だと知った。

 

 

 青豆は後ろ暗い仕事を陰でしているマーシャル・アーツのインストラクター。天吾は小説家を目指す予備校の数学講師だ。

 

 

 十歳の頃に交わったきり、一度も交わらなかった彼らは、『さきがけ』という謎の団体を取り巻く渦に巻き込まれていくことになる。

 

 

「この作品を読んで以来、私はひとつの疑問を抱いたんだ。そして、それは今も、私の頭の中で影を落としているのさ」

 

 

「疑問」

 

 

 私が反復すると、彼女は頷く。

 

 

「君は感じたことはないかい? 自分と、世界とがどことなくズレているような、そんな漠然とした感覚を。日常の中にひっそりとまぎれこむ小さな違和感を」

 

 

 私は黙ったままだった。けれど、彼女にはわかったらしかった。私の沈黙が何を意味するのかを、彼女はよく知っていた。

 

 

「そこはまったく同じ世界だ。けれど、本質的には違っている。私たちはその世界に紛れ込んだ異分子だ」

 

 

 二つのジオラマはまったく同じだ。けれど、私たちがもともといたのは、こちら側じゃあない。あちら側のジオラマだ。

 

 

「だから、綻びが生まれる。それは最初こそ小さなものだけれど、だんだん大きくなっていくんだ」

 

 

 それはまるで繭がほどけていくように。強固な繭であっても、ほどけてしまえばそれはただの細い糸でしかない。彼女は預言者のようにそっと呟く。やはり、その口元は笑ったままだ。

 

 

「私はね、それが世界の終わりの始まりだと思うんだ」

 

 

 

不安定な日常

 

 彼女はそもそも、明らかに同年代の男女とは一線を画した考え方の持ち主だった。彼女がクラスでも孤立していたのは、むしろ必然だったろう。

 

 

 かつては彼女の周りにも人がいたはずなのだが、彼女の言動は次第に隔絶したものに変貌していき、気がつけば、私以外には誰もいなかった。

 

 

 私は昔から注意力がなく、ひとつの言葉を理解するにも他の人たちよりも何倍もかかった。だから、誰もが彼女から逃げていく中で、私だけはその場に突っ立っていたのだ。

 

 

 彼女のあまりにも荒唐無稽な話に、私が返事をしたことはほとんどない。しかし、彼女はそれでも気にしないようだった。それはむしろ、私の心的負荷を和らげてくれた。

 

 

 彼女はいつも笑みを浮かべていたが、いつだって皮肉的だった。彼女は誰もが無条件で信じている何もかもを疑い、果ては自分の存在すらも疑っていたように思う。

 

 

 彼女と別れてから、私は彼女の言葉の意味をじっくりと吟味して呑み込んで、そして、翌日、図書館で『1Q84』を借りて読んでみた。

 

 

 私は村上春樹先生の作品を読むのは初めてではない。『海辺のカフカ』も読んだし、『ノルウェイの森』も読んでいる。

 

 

 しかし、いつだって読んでいる間はおもしろいとも楽しいとも感じられなかった。感動も、恐怖もなく、ただ言いようの知れないざわめきだけが私の胸にあった。

 

 

 『1Q84』でも、それは例外ではなかった。何か言いようの知れない感覚が、私の胸中で顔を出そうとして、けれど出ることができずにもがいているようだった。

 

 

 青豆の、そして天吾の物語を読みながら、私はその感覚と向き合うことに決めた。今まで背を向けていたそれの正体を、私はようやく知ることができた。

 

 

 それは恐怖だった。自分がまるで何も知らない赤子になったかのような、今まで積み重ねたすべてのものを取り払われて、裸のまま往来に晒されたかのような。

 

 

 村上春樹先生の文章は、飾り立ててきた外面を見透かして、本質を暴くのだ。私が嫌悪でもなく、苦手とするのはそれが理由だった。

 

 

 その言葉は世界がどれほど汚く、不安定で、理不尽な現実に満ちているのかということを、無理やりにでも突き付けてくる。

 

 

 私たちはそれほどまでに希望のない世界に生きていることを知らされる。そして、その世界で生きている自分はいかにちっぽけで頼りない存在なのかを突き刺してくるのだ。

 

 

 『1Q84』を最後まで読み終わって、私はため息を吐く。私はやっぱり村上春樹先生が苦手だ。彼の言葉は、見ないふりをして素通りすることを許してくれない。

 

 

 私は空を見上げる。そこには二つの月が浮かんでいた。それは、私がいつも見ていた空の表情だった。

 

 

少しずつ歪んでいる日常

 

 タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。青豆は後部席のシートに深くもたれ、軽く目を瞑って音楽を聴いていた。

 

 

 しかしなぜ、その音楽がヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だとすぐにわかったのだろう、と青豆は不思議に思った。

 

 

 彼女は特にクラシック音楽のファンではない。なのに冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭にいろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。

 

 

 その音楽は青豆に、ねじれに似た奇妙な感覚をもたらした。青豆にはわけがわからなかった。この音楽が私に不可解な感覚をもたらしているのだろうか。

 

 

「お客さん、ひょっとしてお急ぎですか?」

 

 

 運転手は少しだけ首をこちらに曲げて言った。青豆は四時半までに渋谷に行かないといけなかった。

 

 

 しかし、運転手が言うには、渋滞で間に合わないだろうとのことだった。それどころか、日暮れまでかかるかもしれないと聞かされる。

 

 

「方法が全くないってわけじゃないんです。いささか強引な非常手段になりますが、ここから電車で渋谷まで行くことはできます」

 

 

 運転手が提示した方法は、高速道路の脇にある非常階段で地上に降りるというものだった。

 

 

 青豆はひとしきり考えを巡らせた。いろんな要素を、優先順位に従って頭の中で整理した。結論が出るまでに時間はかからなかった。

 

 

「ここで降ります。遅れるわけにはいかないから」

 

 

 運転手は肯いて、金を受け取った。彼はルームミラーに向かっていった。

 

 

「ひとつ覚えておいていただきたいのですが、ものごとは見かけと違います」

 

 

 ものごとは見かけと違う、と青豆は頭の中でその言葉を繰り返した。そして軽く眉をひそめた。

 

 

「言うなればこれから普通ではないことをなさるわけです。そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、いつもとは違って見えてくるかもしれない」

 

 

 運転手は言葉を選びながら言った。

 

 

「でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」

 

 

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