音楽の中で生きている『蜜蜂と遠雷』恩田陸


 蜂蜜のような明かりがカーテンの隙間から入り込む音楽室で、目を閉じてピアノを弾く彼女の姿を、ぼくは惚けたような表情で眺めていた。

 

 

 瞬きをするのすらも心もとない。今にも記憶の雫が自分の身体の隙間から零れてしまうように思えた。

 

 

 あの一枚の絵画のような美しい光景を。俗人の踏み入れてはならない、聖域のような神々しさを。

 

 

 真っ白なカンバスに筆を走らせる。あの瞬間の光景の美しさを、余すところなくカンバスに写そうと試みた。

 

 

 ピアノと、それを弾く少女。光。風景は捉えていた。けれど、どこかその絵は色褪せて見えた。違う。違う。ぼくが見たのは、こんなものじゃない。

 

 

 何だ。何が足りない。ぼくは記憶の中にある光景を見比べてみた。ああ、そうか。足りないのも当然だ。この絵の彼女は、ピアノを弾いていないのだから。

 

 

 音。ピアノを弾けば、当然のように溢れ出てくる音符の奔流。それが、この絵の中には描かれていないのだ。

 

 

 けれど、音を描くなんてことを、ぼくはしたことがなかった。形がないものを描くなんて、果たしてどうすればよいのだろうか。

 

 

 迷った末に、あるひとつの情景がぼくの頭に浮かんだ。ぼくは衝動に突き動かされるままに、筆を走らせる。

 

 

 描きながら考えていたのは、『蜜蜂と遠雷』という小説だった。音楽がテーマとなっている作品だ。

 

 

 天性の音楽の才能を持ちつつも、母の不幸をきっかけにピアノから距離を取っていた亜夜。

 

 

 亜夜と同じ音楽教室に通った幼馴染であり、彼女との出会いをきっかけに音楽の道を歩み出したマサル。

 

 

 結婚し、家庭を持ちながらも、専業としての音楽ではなく生活者としての音楽を追求する高島明石。

 

 

 三人の天才が、伝説の音楽家ホフマンが遺した『ギフト』、風間塵との出会いをきっかけに、音楽家として成長していく。

 

 

 ぼくが読んでいて感嘆したのは、その作品では、音楽の美しさを文字の描写によって再現しようとしているところだ。

 

 

 音楽から見える情景。その音色に込められた感情。それらを、まるでそこにあるかのように文字で形にしていく。

 

 

 読みながら、ぼくは圧倒されて震えたものだった。

 

 

 音楽と小説は芸術であれど、感じるところはまったく違う。音楽は耳で受け取り、小説は読むことで形にする。

 

 

 本来、それは交わらない。けれど、それを『蜜蜂と遠雷』では、まるで織り交ぜるかのように丁寧に、描写することで音に形を与えていく。

 

 

 音色は音の色と書く。鋭敏な感覚を持つ人たちにとっては、音を目で見て、絵画を読み、小説を聞くのだ。

 

 

 ぼくはその光景が見たくて仕方がなかった。そうすれば、きっと音楽をカンバスの中に描き出すことができるはずだ。

 

 

 あの音。彼女の奏でた美しいピアノの音は、いったいどんな色をしているだろう。

 

 

 ぼくは絵筆を走らせる。それはもはや、ぼく自身の手とは思えなかった。まるで別の誰かが、ぼくの手を取って、親が子どもに教えるように動かしているかのようだった。

 

 

 現実にはない光景がカンバスの中に現れてくる。けれど、それはたしかに、ぼくがあの瞬間、見た光景そのものだった。

 

 

 できあがったカンバスを、ぼくは夢を見るように恍惚と眺める。絵の具で描かれたピアノから、あの美しい音色が聞こえたような気がした。

 

 

ギフト

 

 忍耐には慣れていたはずだったが、それでもいつのまにか睡魔に襲われていたことに気付き、嵯峨三枝子はちょっと慌てた。

 

 

 一瞬、自分がどこにいるかわからなくなりそうだったものの、目の前でグランドピアノに向かっている少女を見て、ああ、ここはパリだったと思い出す。

 

 

 世界五か所の大都市で行われるオーディションである。が、聊か集中力を切らしかけている。それくらい、昼過ぎから始まったオーディションは退屈だった。

 

 

 一世一代の演奏を繰り広げている若者には申し訳ないが、彼らが求めているのは「スター」であって、「ピアノの上手な若者」ではないのだ。

 

 

 やはり、なかなか奇跡は起こらない。三枝子は隣の二人もきっと同じことを考えているだろうと確信した。

 

 

 書類があと五枚になった。残り五人。次の書類をめくった時、その名前が目に入った。

 

 

 ジン カザマ

 

 

 三枝子はつい、その書類にはしげしげと見入ってしまった。目を奪われたのは、履歴書があまりにも真っ白だったからだ。ほとんど読むところがない。

 

 

 が、隅にある、「師事した人」の項目に目をやった時、この冗談としか思えないふざけた書類が通った理由がわかった。

 

 

 ユウジ・フォン=ホフマンに五歳より師事

 

 

 あのユウジ・フォン=ホフマンの推薦状! その名は伝説的であり、世界中の音楽家や音楽愛好者たちに尊敬されていたが、今年二月にひっそり亡くなった。

 

 

 カザマ・ジン。いったいどんな演奏をするのだろうか。

 

 

 ステージに現れた少年を見て、三枝子たち三人は呆気にとられた。子ども。三枝子の頭に浮かんだ単語はそれだった。

 

 

 少年は、ぼんやりと経っていた。マイクで声をかけると、ぺこりと頭を下げ、ピアノに向き直る。

 

 

 その瞬間、奇妙な電流のようなものが空気を走った。少年は、目を輝かせ、微笑んだのだ。その目は熱に浮かされたようにうるんでいる。

 

 

 なんだ、この恐怖は?

 

 

 その恐怖は、少年が最初の音を発した瞬間、一瞬にして頂点に達した。それまでどんよりと弛緩していた空気が、その音を境として劇的に覚醒したのだ。

 

 

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