盲目の琴の奏者と彼女を敬愛する弟子の奇妙な師弟愛『盲目物語・春琴抄』谷崎潤一郎


色を失った景色。盲目の景色とは、なるほど、こういうものなのか。これこそが、かの春琴の見た景色かと思えば、その虚無もまた、私の心にある種の感動を感じさせる。

 

私がまだ目の見えていた頃、本が好きだった私は、日がな一日を本を読んで過ごしていた。中でも好んで読んでいた本がある。

 

手を伸ばせば、指先に触れる擦り切れたページ。今やもう、私にはその物語を読むことは叶わない。だが、何度も読み耽ったそれは、まるで見ているかのように私の頭に浮かぶのである。

 

谷崎潤一郎先生の『春琴抄』。私がその作品に魅了されたのは、大学生の頃であった。気まぐれに手に取ったその一冊が、私が生涯にわたって愛する一冊となるとは、その時は想像すらもしていなかった。

 

春琴という人がいる。幼い頃から天性の音楽の才能を持ち、舞踏や琴を教え込まれていた。しかし、ある時、彼女に突如として不幸が訪れる。

 

大病を患ったのだ。命こそ助かったものの、春琴は視力を失い、舞踏を習う道すら閉ざされてしまったのである。彼女の両親は娘の不幸を嘆いた。

 

景色を失い、舞踏ができなくなったことで、春琴は琴の練習により一層打ち込むようになる。彼女の琴の演奏はさらに洗練され、誰もがその才を認めるほどの腕前となった。

 

しかし、彼女の不幸を嘆いて甘やかした両親と、才能を褒め称えた講師の影響か、春琴は実に我儘で高慢な性格であったという。

 

そんな彼女に、従者として仕えることとなったのが、佐助という男である。彼は彼女の身の回りの世話を一身に引き受け、懸命にこなした。

 

佐助は春琴に心酔しており、彼女の我儘にも真摯に受け止め続けた。それは、彼が春琴の琴の弟子となっても変わらない。

 

俗に、この作品はマゾヒズムを描いた作品だと言われる。春琴の高慢に振り回され、時には暴力すら振るわれることもあった佐助だが、彼は彼女を生涯、否、死後もなお敬愛し続けた。

 

歪んだ愛。倒錯した愛。佐助の春琴に対する愛は、しばしばそう表現される。だが、私はそうは思わなかった。むしろ、これほどまでにまっすぐで美しい純真な愛はなかろうと思うのだ。

 

佐助は後に、春琴のために自らの目を突き刺し、視力を失う。そのことにすら喜びを見出す佐助の有様を、倒錯愛と指したのだろう。

 

だが、私はそうではないと考えている。佐助は視界を失ったことで「この世が極楽浄土になった」とすら言っている。春琴の美しさが、目が見えていた時よりもいっそう感じられるのだ、と。

 

目が見えなくなることは、春琴と同じ世界を見ることができるようになったということだ。佐助は視界を失うことで、むしろ、彼が望むものを明確に見ることができるようになったのだ。

 

彼は、高慢で我儘な春琴を心から愛していた。その愛は、マゾヒズムという私たちの生み出した枠の中にとどまるような単純なものではないだろう。

 

この物語を読んで以来、私はずっと目が見えることを、どこかで憎々しく思っていた。ああ、もしも私も彼らと同じように視力を失ったなら、どんなに良いだろうと。

 

私たちは日常の中で、どうしても、目で見えるものに囚われてしまう。だが、本当の美しさ、本当に価値のあるものとは、視界に飛び込んでくる一切のしがらみから解放されたその先にあるのではないだろうか。

 

今、ようやく夢が叶い、私は光を失った。もう二度と本は読めない。だが、私の胸には後悔も悲嘆もない。美しい春琴と佐助の物語は、今も私の失われた景色の中に色づいているのだから。

 

 

師弟の奇妙な関係

 

春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生れで没年は明治十九年十月十四日、墓はしない下寺町の浄土宗の某寺にある。

 

下寺町の東側のうしろには生国魂神社のある高台が聳えているので今いう急な坂路は寺の境内からその高台へつづく斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍しい樹木の繁った場所で会って琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな空き地に建っていた。

 

光誉春琴恵照禅定尼、と、墓石の表面に法名を記し裏面に俗名鵙屋琴、号春琴、明治十九年十月十四日没、行年五十八歳とあって、側面に、門人温井佐助建之と刻してある。

 

琴女は生涯鵙屋姓を名乗っていたけれども「門人」温井検校と事実上の夫婦生活を営んでいたのでかく鵙屋家の墓地と離れたところへ別に一基を選んだのであろうか。

 

寺男が示した小さな墓標の前へ行って見ると石の大きさは琴女の墓の半分くらいである。表面に真誉琴台正道信士と刻し裏面に俗名温井佐助、号琴台、鵙屋春琴門人、明治四十年十月十四日没、行年八十三歳とある。即ちこれが温井検校の墓であった。

 

ただこの墓が春琴の墓にくらべて小さくかつその墓石に門人である旨を記して死後にも師弟の礼を守っているところに検校の遺志がある。

 

奇しき因縁に纏われた二人の師弟は夕靄の底に大ビルディングが数知れず屹立する東洋一の工業都市を見下ろしながら、永久に此処に眠っているのである。

 

 

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