ナオミズムに気をつけて『痴人の愛』谷崎潤一郎


 久しぶりに会う私の友人は随分とやつれて見えた。以前の覇気に満ちた男がよもやこれほどまでに落ちぶれようとは。

 

 

「お前、何かあったのか?」

 

 

 私が聞くと、彼は力なく苦笑を零した。口元に浮かぶ乾いた笑いはそのまま彼の心中を表しているかのようだ。

 

 

「聞いてくれるか」

 

 

 彼が言うところには、つまるところこういうわけだった。

 

 

 彼は学生時代より硬派な男であった。女性との付き合いにも直情なところがあり、女遊びに耽るということはなかった。

 

 

 そんな彼が入れ込む女がいるという。人波の中にいて思わず目を惹くほど美しく、長い手足が妖しげな魅力を醸すような女であった。

 

 

 彼女との付き合いともなれば、もう2年にもなるだろうか。友人と彼女の出会いは東京の通りにある洒落たカフェであったらしい。

 

 

 彼女はその店で店員として働いていた。橙色の短いスカートが彼女の長くてきれいな足を際立たせていた。

 

 

 声をかけたのは彼からであった。本人にとっては、彼の人生においても一大決心であったろう。

 

 

 二人が友人として付き合いだすまでにそう時間はかからなかった。というのも、最初の出会いさえこなした後は彼女の方が積極的に彼を巻き込んだからである。

 

 

 それから、二人はしばしば遊びにも出かけるようになった。一晩泊まったことすらある。私が知る彼の人格ならば、到底信じられないことであった。

 

 

 彼女はしかし、友人としての一線を越えることはしなかったという。ただ、彼女がのぞかせる誘惑は彼の自制心を大いに揺るがせた。

 

 

 女性との付き合いに不慣れな彼からしてみれば、よく辛抱したと思うだろう。二人は男女の関係を結ぶようになった。

 

 

 彼女は遊び好きの女性で、あちらこちらへと行きたがる。そして、行く先々で彼にものをねだった。

 

 

 我儘が得意というのは彼女のようなのを指すのだろう。彼女は猫なで声で男の肩に手を掛け、頭を胸に寄せるのだ。そうすれば、男はもう彼女の言うことを聞くしかなくなるのだ。

 

 

 彼は収入が多い方ではなかった。彼は自分の生活を切り詰めて、彼女の我儘を叶えるのに使っていた。

 

 

 しかし、彼がやつれているのはそのためではなかった。その後に彼を襲うこととなる残酷な事実が彼を変貌せしめたのである。

 

 

魔性

 

 友人と彼女の間に暗雲が立ち込めたのは、つい先月のことであった。

 

 

 きっかけは彼女が彼に隠れて密やかに男と会っているのを知ったことであった。

 

 

 とはいえ、彼女が男友達と会うのは珍しいことではない。彼女には、そういう男友達が何人もいたのである。

 

 

 しかし、彼はよりにもよってそのひとりと彼女の内通をその目で目撃してしまったのだ。二人は抱きしめ合っていたのだという。

 

 

 彼は当然、彼女に怒ったという。しかし、彼女の涙を見れば怒声が尻すぼみになっていった。そして、怒鳴る気力もなく屈服してしまうのであった。

 

 

 その許容が彼女をますます増長させた。彼女はより大胆になっていた。内通は一度ではなかったのだ。

 

 

 二度目を見た時、彼は自分の怒りや悲しみが彼女の心に何ら与えていないことを知った。しかし、彼女との付き合いを断ちたくないという思いが彼の決意を鈍らせていた。

 

 

 三度目の内通を見た時、彼はいよいよ彼女との付き合いを断つべきだと考えた。彼は彼女に跪いて他の男と別れてくれるよう言ったという。

 

 

 以来、彼女とは会っていないらしい。友人は彼女や友人と会わないようにするために河岸を変え、東京を離れた。

 

 

「今でも彼女のことを夢に見る。彼女が戻ってくるならば、俺は何でもするだろう。それほどまでに俺の魂はあの女に囚われているのだ」

 

 

 すまないな。そう言って彼は小用に立つ。対面に冷めた珈琲が座る店内でひとりとなった私は、友人の話を反芻していた。

 

 

 私は友人が別れた後の彼女を知っている。友人は別人もかくやとばかりに変貌を遂げたが、彼女の人格は友人からの変化を瑕疵とも受けなかった。

 

 

 彼女は相変わらず多くの男の間を渡り歩いている。友人は彼女が無数に持つ宿木のひとつに過ぎなかったのだ。

 

 

 そして、私もまた、彼女の宿木のひとつである。私が彼女と関係を持っていたのは友人よりも以前であり、今も続いている。

 

 

 私はため息を吐いた。私は彼のことを笑うことはできない。彼のやつれた姿はともすれば私の未来だからである。

 

 

魔性の女に振り回された哀れな男

 

 電気技師として働いていた河合譲治は同僚から「君子」とあだ名されるほど女っ気がなく真面目な男であった。

 

 

 しかし、彼が女性と付き合わなかったのは、彼の中で理想の結婚の姿というものが存在していたからである。

 

 

 彼は年頃の女を自分の手で妻として恥ずかしくない教養を身につけた女性へと育て上げ、自然な成り行きとして結婚することを望んでいたのだ。

 

 

 そして、彼は浅草のカフェーで理想の女性と出会った。彼女の名をナオミと言った。

 

 

 ナオミは無口で陰鬱な空気の女性であった。血色は良くないが、どこか西洋風の美女である。

 

 

 彼はナオミに声をかけて仲良くなり、彼女を引き取った。ナオミを妻として迎え、二人暮らしを始める。

 

 

 しかし、彼の希望により、二人の生活は堅苦しい結婚生活というわけではなく、友達同士の遊びのような生活だった。

 

 

 彼女は美しく成長していった。しかし、彼女は美しくなっていくにしたがって性に奔放で我儘な娘へと変貌していった。

 

 

 彼は彼女に失望を抱いた。しかし、彼はもう、彼女の魔性から逃れる術を失っていたのである。

 

 

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