京都を舞台にした恋愛アドベンチャー『夜は短し歩けよ乙女』森見登美彦


四畳半に籠もって精神を鍛えると決意して幾数日。私は自らの精神が如何に惰弱であるかを痛感していた。逃れられぬ業が私を苛んでいたのだ。私の背後に忍び寄る魔とは何か。それは、男としての性であり、恋への渇望である。

 

誓って、私は過去に恋愛などしたことがない。恋愛は一種の精神病であり、精神的弱者の所業であると固く自らに言い聞かせて律してきた。

 

読者諸君に誤解しないでいただきたいのは、これは決して非モテ男の醜い僻みなどではないということである。私は学生の身分にして修行に身を沈める仙人の如く異性に心乱されぬ精神を鍛え続けていたのだ。

 

私がその気になればあらゆる女性は我が魔性のフェロモンによってクラクラになってしまうに違いない。そんなことになっては彼女たちの日常に支障をきたすから私も硬派な男を気取り、女性との接触を頑なに避けたのである。

 

しかし、我が鋼の精神を以てしても生物の本能と直結している欲望を克服することはできなかった。その醜悪な欲望は事あるごとに我が肉体を内から食い破らんと暴れまわっているのだ。

 

それは四畳半に籠もると決めた今になっても変わらない。いやむしろ、女性との出会いが完全に絶たれ、男汁の染み渡る四畳半にいるからこそ、その怪物はより一層凶暴さを増して私を苛んでいるのである。

 

さすがに抑えるのも困難になり、これはいかんと私も一計を案じた。そこで編み出した秘策が、作中の恋愛に身を浸すことによって怪物を慰めようというものである。

 

幸いにも、森見登美彦氏の作品の中に、うってつけの恋愛本があった。それこそが『夜は短し歩けよ乙女』である。

 

お友だちパンチという必殺技を携え、気ままに人生を闊歩する「黒髪の乙女」。そして彼女の背中を追いかけるのは、彼女に懸想する「先輩」である。

 

最初は路傍の石の如く彼女の視界の隅にすら映ることができなかった先輩が、度重なる災難の旅路の果てに黒髪の乙女の背中ではなく目を見据えることができるようになるその経緯を知れば、涙を禁じ得ない。

 

先輩よ、汝の努力に敬意を表し、永遠の幸福のあらんことを。そして黒髪の乙女よ、汝は変わらず己の道を突っ走ってくれたまえ。しかるのちに爆発しろ貴様ら。

 

彼らの周りを囲う人たちも実に奇天烈である。おや、この天狗を自称する男と彼の傍らに侍る美女は、どこかで見覚えのあるような。

 

ともあれ、不思議な京都の町並みに呑み込まれ、ミルクチョコレートのような恋愛に散々砂を吐き出しながら、私は読み終えた本を閉じた。

 

うん、実は何を隠そう、私が森見登美彦氏の作品の中でもっとも好きなのは、この『夜は短し歩けよ乙女』なのである。非常に満足であった。

 

しかし、皮肉にも私の完璧であったはずの策謀に、聊かの誤算があったことは認めねばなるまい。

 

作中の恋愛を読んでも、私の中の怪物は収まらないどころか、一層激しく暴れ出したのだ。作中の彼らと四畳半に引きこもる私との格差が、怪物に抑制の鎖を引き千切るほどの力を与えてしまったようなのである。

 

ああ、彼女が欲しい。いや、この気持ちに耐えることもまた、我が精神を強くする修行の一環なのだ。でも、彼女が欲しい。もう誰でもいいから。お願い。

 

 

腐れ大学生が無邪気な女性に恋して追いかける恋愛ファンタジー

 

私は古本市に弱い。あまり長く古本市をうろついていると、きまって偏頭痛に襲われ、悲観的になり、自虐的になり、動悸息切れがし、ついには自家中毒を起こす。

 

だから古本市の季節には、私は決まって憂鬱になる。それで、今年こそは行くまいと心に決めた。しかし、土壇場になって、どうしても行かねばならない窮地に追い込まれた。

 

彼女が行きたいと言ったのだ。

 

彼女は大学のクラブの後輩にあたり、私はひそかに想いを寄せていた。彼女との出会いを妄想するロマンチック・エンジンはとどめようがなく、どこまでも暴走した。

 

京都、下鴨神社の参道である。齢を重ねた楠や榎が立ち並ぶ糺の森を、広々とした参道が抜けてゆく。

 

その参道の西にある流鏑馬用の馬場には、異様な気配が立ち込めている。紺の幟には、「下鴨納涼古本まつり」と書かれてある。

 

私は昼過ぎから糺の森へ出かけた。しかし行けども行けども古本ばかりで、意中の乙女は姿が見えない。

 

広場を往来する人々をぼんやり眺めていると、薄汚いオッサンもおれば、若い男女の姿もある。暑苦しい限りだ。

 

ふいに私はハッとした。

 

一軒の古本屋の前で、文庫本を手に取ってしげしげと眺めている小柄な女性がいて、その後ろ姿が彼女によく似ている。

 

私は勢い込んで立ち上がった。駆けだした途端、歩いてきた子どもに衝突した。

 

私はよろめきながら舌打ちして、人の恋路を邪魔した子どもを睨んだ。小学校高学年ぐらいの男の子である。

 

少年が舐めていたらしいソフトクリームの残骸が、私のシャツにべったりとへばりついていた。

 

私が呻いて文句を言うと、少年は有無を言わさぬ迫力で弁償してもらうと言った。年齢に似合わぬ大人びた声だった。

 

そして少年は私の腕を掴み、売店へ引きずっていこうとする。彼女の形を取って古本市に降り立った薔薇色の未来が遠ざかる。

 

 

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