読者が犯人になるミステリ『最後のトリック』深水黎一郎


 深水黎一郎先生の『最後のトリック』を初めて読んだ時の衝撃は、計り知れないものであった。それはまさしく、未だ見たことがないミステリだったのだ。

 

 

 頬杖をついて、真っ白な作文用紙を見つめ続ける。もう二時間もそうしているが、筆が進むわけでもない。

 

 

 ミステリ作家として名を挙げたはいいが、今ではそのことを後悔しているくらいであった。

 

 

 今や、本屋の本棚をざっと見てみても、どこもかしこもミステリばかりだ。すでにミステリは飽和しきっている。

 

 

 本格ミステリから始まったミステリの枝葉は広がり続け、今や多くのバリエーションが存在するまでになった。

 

 

 しかし、そこはすでに成長しきっている。あとは老いていくだけの巨木でしかない。枝葉はもう、わずか先にすら伸ばすことも難しい。

 

 

 読者は常に斬新なミステリを求めている。しかし、ミステリのジャンルは、すでに偉大な先人たちによって踏み荒らされているのだ。

 

 

 探偵が犯人。被害者が犯人。容疑者全員が犯人。執筆者が犯人。動物が犯人。意外性の感じられる犯人像は、すでに出尽くしてしまった。

 

 

 しかし、「読者が犯人」という結末だけは、決して不可能だと私は考えていた。多様な読者に「犯人」だと自覚させるのは不可能である、と。

 

 

 そんな私の常識を壊したのが、『最後のトリック』であった。読んだ瞬間、「やられた!」と思わず叫んだものだ。

 

 

 たしかに、自分が犯人だと思わされた。私はひとりの読者として、間違いなく作中の人物の命を奪ったのだ。

 

 

 私はほうとため息を吐いた。深水先生は見事だった。ミステリ作家として嫉妬してしまうくらいだ。

 

 

 彼はまさにミステリの新たな形をこれ以上ない方法で提示してみせた。誰も手が出せなかった最後の牙城を壊したのだ。

 

 

 こうなってくると、いよいよ思い浮かんでこない。私の思考に、黒いノイズが走り始めていた。

 

 

 真っ白な作文用紙。一文字も書かれていない物語。静かな部屋に響く時計の音。編集からの着信通知。

 

 

 ミステリ作家は日がな一日、いかにして人の命を奪うかを考えている。読者が求める「ミステリ」とは、そもそも何か。

 

 

 おもむろに、ペンを握る。ひとつ、思いついたものがあった。ペン先は尖り、インクが垂れている。それはまるで、使った後のナイフのように。

 

 

 いっそのこと、被害者、というのはどうだろうか。斬新な被害者。しかし、それを表現するにはどうすればいいか。

 

 

 ミステリ作家は命を奪うトリックを考え続け、作品の中で登場人物を手にかける。

 

 

 すなわち、作品の中に用意された犯人は、その役柄を持つだけ。本当に命を奪ったのは、犯人を裏で操る真犯人、つまり、私たちミステリ作家だ。

 

 

 私はペンを手に取り、作文用紙に文字を書き始める。それは作品ではない、知り合いの作家への、手紙だった。

 

 

 作品という箱庭の中では、説得力に欠ける。このトリックのためには、私自身も作品のひとつにならなければならない。

 

 

 登場人物はそろっている。後輩の作家。編集。そして、私。私が描く登場人物たち。誰もがただの駒となる。

 

 

 私はシナリオを用意するだけ。そして、事の発端も私でしかありえない。これは私自身の物語なのだから。

 

 

 ペン先を見つめる。今まで数多くの人の命を奪ってきたペンだ。しかし、この作品で奪うのは、ひとりだけでいい。

 

 

 私は目を閉じて、ペン先を自分に向けた。真っ白な作文用紙に、赤いインク。思わず笑みが零れる。ミステリの絵としては上品で、魅力的だ。

 

 

 被害者は私。ミステリ作家自身。だから、作品は決して完成しない。作文用紙に散りばめられた私の命。それこそが、私の描く最後のトリックだ。

 

 

読者を犯人にする前代未聞のミステリ

 

 その日私は、仕事場で呻吟苦心していた。ドアをノックする音があり、立ち上がって廊下を覗くと、管理人の老人が仏頂面で立っていた。ドアを開けると老人は、一通の封筒を手渡してくれた。

 

 

 何の変哲もない白い封筒であるが、上部には速達の赤い印が捺してある。裏返して見ると、差出人の欄には名前だけが書いてあった。中から出てきたのは、便箋数枚からなる手紙だった。

 

 

「突然このような手紙を差し上げる失礼をお許しください」

 

 

 手紙は、そんな書き出しで始まっていた。

 

 

 突然このような手紙を差し上げる失礼をお許しください。本来ならば、まず自己紹介をしなければならないのでしょうが、それは割愛させていただきたく存じます。

 

 

 貴殿はミステリーの世界に残された、最後の不可能トリックというのを聞いたことがありますでしょうか?

 

 

 ミステリーというジャンルの創始以来、今日に至るまで、それこそ星の数ほどの推理小説が書かれてきました。

 

 

 そして長い間、推理小説の王道は、《本格者》と呼ばれる犯人当てのミステリーでした。

 

 

 思うに《本格ミステリー》ほど、その成立以来、さまざまな批判の声に晒されてきたジャンルはないように思われます。

 

 

 最近聞くところによると、この本格ものが、その《本格》という名称とは裏腹に、ミステリーの世界において、肩身の狭い思いをしているらしいのです。

 

 

 本格ミステリー衰退の根本的な理由、それはジャンルに内在している富が、ほぼ汲み尽くされてしまったことです。

 

 

 要するにそれは、《本格もの》をミステリーの王道たらしめていた《意外な犯人》のパターンが、いい加減出尽くしてしまったということです。

 

 

 ところが実はたった一つだけ、いまだ誰も実現させていない最後の不可能トリック、究極の《意外な犯人》というものがあるらしいのです。

 

 

 それはずばり、《読者が犯人》というものです。読み終わって本を閉じた読者に、「私が犯人だ」と言わせることができれば、作者の勝ち、というわけです。

 

 

 実は私は、その《究極の意外な犯人》を可能にするアイディアを、持っているのです。

 

 

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