苦く蘇る暖かなあの頃の恋『別冊図書館戦争Ⅱ』有川浩


 父の部屋の掃除をしていると、古ぼけた奇妙な写真を見つけた。若かりし頃の父と、恥ずかしげに少し俯いた女性が写っている。

 

 

 しかし、その女性は私が子どもの頃に父と離婚して家を出ていった私の母ではないようだった。

 

 

 写真とはいえ、身を寄せ合う二人の間にある甘い空気はただの友人同士の距離感ではない。

 

 

 いったい、この女性は何者なのか。気になった私は、写真を見せて父に直接聞いてみることにした。

 

 

 父は写真を見ると、目じりを下げた懐かしげな表情をする。その瞳はどこか遠く過ぎ去っていった過去を見ているようだった。

 

 

「随分と、懐かしいものを見つけたな」

 

 

「このお父さんと一緒に写ってる女の人は誰? お母さんじゃないよね」

 

 

 私が聞くと、懐古に浸っていた父の表情に陰りが差す。それは懐かしさと、愛しさと、憂いが入り混じったような、複雑な顔だった。

 

 

「彼女は、昔通っていた大学の同期だよ」

 

 

「当時の恋人だった?」

 

 

 私の問いに、彼は頷く。やっぱり。父と母は職場で出会って結婚したらしい。つまり、彼女は父が母と出会う前の恋人だということだ。

 

 

 私は好奇心が湧いてくるのを抑えられなかった。彼女の話をもっと聞いてみたかった。

 

 

 母は火のように活発で苛烈な人で、物静かで穏やかな父とはまるで対照的だった。

 

 

 母が厳しい人間というわけではなかったけれど、母は怒った時には相手を容赦なく責めるヒステリックな一面を持っていた。

 

 

 父と母の離婚の直前には、それはもう、ひどくなっていた。母の活発な利点は悪い方へと働いた。

 

 

 父は母の投げられる激しい言葉にも一切言い返すこともなく、ただ黙っていた。私が父についてきたのは、父のそんな一面を尊敬したからだ。

 

 

 父が母を愛していなかったわけではないと思う。父と母の間にはたしかな愛があった。

 

 

 しかし、彼女の写真を見た父の顔。そこには、彼女に対する若い恋慕の情があるように見えた。

 

 

 父は、まだその女性のことが忘れられないのだ。その表情を見て私は確信した。母と結婚していたとしても。

 

 

「その人、どんな人だったの?」

 

 

「そう、だな、いい人だったよ。私にはもったいないくらいに」

 

 

 セピア色の、父の淡い思い出。父の話を聞きながら、私は父と彼女の過去へと巻き戻る。

 

 

泡沫のように消えた恋

 

 ぼくが彼女と初めて出会ったのは、大学二年の頃だった。彼女は文学部で、ぼくと同じ講義を受けていた。

 

 

「隣、いいですか。どこも空いてなくて」

 

 

「あ、いいですよ」

 

 

 そんな味気ない会話が、今にして思えば初めて彼女と交わした会話だった。けれど、今でも彼女が隣に座っていた感覚を思い出すことがある。

 

 

 ぼくは女性と話すのが慣れていなくて、それまで誰かと付き合った、なんて経験はなかった。

 

 

 だから、隣に女性が座るという状況はあまり経験がなく、思わずそわそわしたものだった。

 

 

 ましてや、彼女はきれいだった。大人しいし、派手な性格でもないから目立たなかったけれど、落ち着いた上品なきれいさを持っていた。

 

 

 だから、余計にどぎまぎしてしまって、ぼくはちらちら彼女を意識しながら落ち着きなく黙って座ることしかできなかった。

 

 

 だから、ぼくは読書でもして気を紛らわそうと思って、カバンから読んでいた本を取り出した。『別冊図書館戦争Ⅱ』だ。

 

 

「あ、それ」

 

 

 彼女から突然声を掛けられたものだから、ぼくはびくっと肩を震わせた。彼女の視線はぼくが取り出した本に向けられていた。

 

 

「『図書館戦争』ですよね。有川浩の」

 

 

 私、大好きなんですよ、『図書館戦争』シリーズ。ぼくを見つめる目がきらきらしていて、思わず見惚れた。

 

 

 それからは『図書館戦争』の話で盛り上がった。女性と話すのが苦手だったけれど、好きな作品だったから感想や意見を言い合うのはおもしろかった。

 

 

 それ以来、彼女とはよく話すようになった。ぼくは彼女のことが好きになっていることに気付いて、彼女に告白した。

 

 

「好きです。ぼくと、付き合ってください」

 

 

 彼女は頬を赤らめて頷いた。以来、ぼくと彼女の関係性は恋人同士に変わったんだ。

 

 

 ぼくは卒業したら彼女と結婚するんだろうなと思っていたし、彼女もぼくと結婚すると思っていた。

 

 

 けれど、それは結局、叶うことがなかった。

 

 

 彼女は地元でも大きな名家の生まれで、彼女の親はとても厳しい人だった。彼らは決して、ぼくと彼女の結婚を認めなかった。

 

 

 ぼくは時間をかければ、いつかは彼女の親も認めてくれると思っていた。でも、そんな考えは甘かったんだと知らされたんだ。

 

 

「私、お見合いすることになったの」

 

 

 彼女は俯いたまま切り出した。彼女の親は、とうとう強硬的な手段で娘にふさわしい相手を繕おうとしたらしい。

 

 

「こんなの、あんまりよ。ねえ、駆け落ちしましょう」

 

 

 彼女は悲痛な響きを込めてそう言った。彼女の瞳には透明な涙が浮かんでいた。

 

 

 けれど、ぼくは彼女の提案に頷かなかった。彼女が親を大事に思っていたのを知っていた、とか、理由はいろいろ思いつく。

 

 

 でも、結局、それはただの言い訳でしかない。ぼくは怖かった。駆け落ちという強引な手段に出るのが。

 

 

 そのまま、ぼくと彼女は別れることになった。

 

 

 彼女のためならなんでもするつもりだったし、なんでもできるつもりだった。でも、結局、ぼくは臆病なだけだったんだ。

 

 

 以来、彼女とは会っていない。今でも、あの時彼女の提案に頷いていたらと思うことがある。彼女の手を引いて、駆け落ちしていたら、と。

 

 

 でも、今はこれで良かったんだと思うよ。だって、かわいい娘ができたんだから、ね。

 

 

穏やかな苦労人が抱えている過去の恋

 

 堂上班が休憩中にそんな話題で盛り上がっていたのは、手塚と郁もそろそろ三正という階級が板についてきた頃である。

 

 

 もしもタイムマシンがあったなら。郁は堂上との結婚式の時にもう一度戻りたいとうっとりした。

 

 

 堂上はノーコメントと答えたが、小牧によって過去の失態を暴露される。それによると、堂上は意地を張った挙句にひどい目に遭ったとのことだ。

 

 

 手塚は痛飲して休んでいたところに、郁からスポーツドリンクをもらって倒れた時だと答えた。

 

 

 現場に遡れるなら問答無用でスポーツドリンクを取り上げて、郁のやることを確認なしで信用するような軽率な真似をしないように若い頃の自分に説教する、とのことだ。

 

 

 郁は旗色悪しと見て撤退を図った。まだお題に答えていなかったのは小牧だけである。その小牧はクマドッキリを仕掛けられた新人の頃、と答えて夫婦ごと奈落に叩き落とした。

 

 

 そういえば、と話を逸らしがてら郁は事務室の奥を振り向いた。

 

 

「緒形副隊長はいつに戻りたいですか?」

 

 

 それまで黙々と書類を処理していた緒形が、ふと仕事の手を止めて考え込む風情を見せた。

 

 

「……大学の頃、かな」

 

 

 戻りたいのは大学の頃――正確には大学三年。まだ進路が決まっていなくて、未来が真っ白だった無垢な時代。

 

 

 不惑に乗って二年目からは遠い過去だが、今でも昨日のように思い出せる鮮やかな日々。

 

 

 もう取り返しがつかないからこそ、それは年経るごとに鮮やかさを増すのかもしれない。

 

 

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