生きるとは何か、死ぬとは何か『空白を満たしなさい』平野啓一郎


かつて、イエス・キリストは処刑から三日後に、生き返ったという。誰もがそれを奇跡だと言ったけれど、当人からしてみれば、ぞっとするような話だと思う。

 

『空白を満たしなさい』という本を読んだことがある。タイトルから自己啓発本だと思って手に取り、開いてみたら小説だったから、当時は「失敗した」と肩を落としたものである。

 

俺はあまり小説を読まない。自己啓発本やビジネス書が主だった。だが、せっかくだから読んでみようと思ったら、思いのほか面白く、以来、小説を読むのにも抵抗がなくなった、という経緯がある。

 

亡くなった人間が生き返っている、という事象が次々と起こっている。主人公の土屋徹生も、そのひとりだった。

 

彼はどうやら勤めている職場のビルの屋上から落ちたらしい。彼が生き返ったのは、彼の命がいったん終わってから、三年が経ってからのことだった。

 

人が亡くなったとき、「生き返ってほしい」と泣き叫ぶ人がいるけれど、もしも実際に生き返ったとしたら、どうするのだろう。きっと、喜びはしないんだろうな、と思う。恐怖と戸惑い。そんな目で見るんじゃないか。

 

徹生の妻である千佳もそうだった。若い夫婦だった彼女にとって、夫がいなくなった三年間というのは、あまりに長い。当時は一歳だった息子の璃久も、四歳になっていた。

 

徹生は、何者かによって自分は命を奪われたのだと思っていた。怪しいと目している人物がひとりいる。職場で警備員をしていた佐伯という人物である。彼によって、自分は死んだのだ、と。

 

しかし、妻や、周りの人たちは、徹生が自ら飛び降りたのだと言う。徹生は信じられなかった。自分は妻もいて、子どもも生まれたばかり、幸せだった。自ら命を絶つ理由なんてどこにもない。

 

しかし、証明しようにも、命を落とす前後の記憶が、徹生には欠落していた。思い出せない空白の時間。その時間に、いったい何があったのか。徹生は、自分の死の真相を探る。

 

そうだ。そんな話だった。読んだのは、もう随分前になる、らしい。にもかかわらず、それが鮮明に思い出せるのは、俺の中にも徹生と同じ空白があるからだ。

 

死後の世界なんてものがあると思うか。徹生は否定的だった。俺も、正直信じてはいない。生前からそうだった。

 

俺の時間は、九年間止まったままだった。俺は覚えていないのだが、東北の地震で起きた津波に呑まれたのだという。以来、ずっと行方不明だった、とか。

 

いくら大切な人であっても、人の死は、時間が解決してくれる。俺にとって死とは、恐れるものでもないし、忌むべきものでもない。ただ、いなくなる。それだけのことだった。

 

だが、いなくなったと思われている人が、再びぽんと現れたのなら、どうだろうか。すでに誰もがその人のいない世界に慣れ、もう悲しみすらも思い出になった、そんな時に。

 

どうしたらいいかわからない戸惑いと恐怖の視線を向けてきたかつての恋人を、責める気はなかった。新しく出会った人と結婚し、子どももいる。彼女の生活に、再び俺が現れても、邪魔なだけだろう。

 

親はすでに亡くなっていた。勤めていた会社に電話をしてみると、いたずら電話に間違われた。友人たちは、番号を変えているらしく繋がらない。

 

家もなく、仕事もなく、友人も恋人もいない。俺の居場所はどこにもなかった。ああ、どうして俺は、生き返ってしまったのだろう。

 

 

空白の記憶

 

病院の受付で、空白だらけの問診票を提出しながら、徹生は、「電話で先生に、事情は説明してありますので」と言い添えた。

 

看護師は、「土屋徹生」という氏名を確認すると、改めて彼の顔を一瞥した。そして、「そちらのソファに掛けてお待ちください」と言った。

 

言われたとおりに黒いソファに腰を下ろしながら、彼は、『――大丈夫、きっと助けてもらえる』と、不安を押し殺すように自分に言い聞かせた。

 

彼は、向かいのソファに置かれたスポーツ新聞に手を伸ばしかけた。そして、その広告欄の週刊誌の見出しに、息を呑んだ。

 

〈奇跡⁉ 死んだ人間が生き返った! 全国各地で次々と! 驚天動地の衝撃レポート 第一弾!!〉

 

落ち着きかけていた不安が、また昂じてきた。耳まで火照って、背中の一面から汗が吹き出した。自分の中の一切が、崩れ出しかけていた。

 

「――土屋さん。土屋徹生さん」

 

受付の看護師に呼ばれて、徹生は鞄とジャケットを手に取り、立ち上がった。「どうぞ、そちらに」中には院長だけがいて、四角い銀縁眼鏡の奥から、徹生を注視していた。

 

「電話でもお話ししましたが、たしかに三年前に、私は”土屋徹生さん”という方の遺体の検視をしています。ビルからの転落死でした」

 

「僕が、その土屋徹生なんです。間違いありません」

 

徹生はきっぱりと言い切った。

 

「どうしてそう言えるんです? 証明できますか?」

 

「証明って、……僕は僕ですよ、そんなの」

 

「あなたは三年前に亡くなっている。――で、数日前に生き返ったと言うんですね?」

 

 

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