「君は、驚かないんだな」
そんなわけがない。ただ表情に出ないだけで、これでも驚いているのだ。なるほど声を失うほどの驚きとはこういうものかと、どこか逃避のようにそう思った。
彼は私が知る姿とちっとも変わっていなかった。それが逆に、なんだか不思議に思えて仕方がなかった。
だって、私は彼の変わり果てた姿を見ているのだから。一か月前、この世を去った彼の最期を。
「生きているの?」
「いいや、死んでるよ」
そうだろうね、と私は頷いた。あの頃のことが夢だったのなら、とどれほど焦がれていたことだろう。しかし、あれは紛れもない現実なのだ。
棺の中で目を閉じたままの彼。涙を流して悲しむ彼の母。そして、涙すらも枯れはてて、呆然としていた私。
あの時に私の手を握った彼の母の細く弱々しい手の感触さえ、まるで昨日のように思い出せるのだ。
「じゃあ、これは夢?」
私が聞くと、彼は悪戯げに笑った。彼はよくそんな笑い方をした。胸が思わず跳ねるけれど、顔には出さない。
「夢だとするなら、どっちだと思う? 君の夢か、僕の夢か」
「そりゃあ、私の夢じゃないの。だって、死人は夢を見れないでしょ」
「そうかな」
でも、確かめるにはわかりやすい方法があるよね。彼はそう言って、私の手を取った。
思わずどきりとする。彼の手は冷たくはなかった。生きている人たちと同じように体温があって、透けて触れない、なんてこともなかった。
「痛っ」
腕に走ったちくりとした痛みに、思わず腕を引っ込める。信じられない、つねられた。私は彼を睨み付ける。しかし、彼は気にした様子もなくにやにや笑っていた。
「夢じゃないみたいだね」
「……そうだね」
どこか釈然としない思いを呑み込んで頷いた。つねられたところは蚊に刺されたように赤く染まっている。
「でも、それじゃあ、現実。そんなこと」
「世の中って、意外と不思議なことがあるらしいね」
彼は肩を竦めた。彼のその態度はよく見ていたけれど、不思議なことになってしまった本人が言うのはどうかと思う。
「でも、今日、お盆じゃないよ」
「お盆なんて、今はもう学生にとっての休みとか帰省とか、それぐらいでしょ」
幽霊だって、たまには冬とか春に帰りたくなるよ。暑いの嫌いだし。彼はしれっとそんなことを言う。
「幽霊になったってことは、何か現世に心残りがあるとか」
「さあね」
彼は肩を竦めた。
喪失を受け入れて生きる
彼と私は幼馴染だった。親が友人同士で、同い年だった私たちが遊ぶようになるまでそう時間はかからなかった。
成長しても、私たちの関係は変わらなかった。学校でもいつも一緒にいた。高校は別々だったが、なにせ家は隣だから交流が減ることはなかった。
かといって、よく誤解されるのだけれど、私たちが恋人同士になることは一度としてなかったし、考えることすらなかった。
彼と私はそれぞれ恋人を作っていたけれど、その間も私たちは互いに家に行き来していた。彼のせいで私が恋人と喧嘩することもあったし、逆もまたあった。
しかし、恋人同士ではないけれど、私にとっての彼は決して欠かせない存在になっていた。それは彼にとっての私もそうだったろう。
幼い頃から一緒だった私たちは、もう家族と言ってもいいくらい近しい関係だったのだ。付き合う気が起きなかったのも、それが理由なのかもしれない。
私の人生にはいつも彼がいるのだと信じていた。私が結婚しても、ずっと、彼が側にいるものなのだと、どうしてだか私は無意識に思っていたのだった。
だからこそ、彼が唐突にいなくなった時、私はどうしていいかわからなくなった。長年連れ添ってきた相手だったのに、涙すらも出なかった。
その代わり、胸にぽっかりと穴が開いたかのようだった。私という存在が、その穴から零れ落ちていくかのよう。
「ねえ、どうして置いていったの」
ずっと一緒だったのに。彼がいなくなる時に私が置いていかれたのがショックだった。だから、私は。
「僕に、ついてこようと思ったんでしょ」
見通したような彼に、私は頷く。その通りだった。私は彼についていこうとしたのだ。だから、私は生きていくことを放棄した。
「そうだろうと思った。だから、僕が来たんだよ」
僕はね、君に別れを言いに来たんだ。私は目を見開く。
「君に別れを言えなかったことだけが、僕の心残りだった。だから、伝えるつもりだったんだよ。ついてこようとなんてしないで、自分の人生を生きてって」
約束、してくれる。彼が小指を差し出してきた。幼い頃からよくしていた、指切りげんまん。君は泣き虫だなぁ。彼は呆れたように笑った。
「指切りげんまん、嘘吐いたら、針千本、のーます」
指切った。彼の姿が涙で滲んでいく。涙の奥で、彼の姿が少しずつ薄らいで消えていくのが見えた。私は思わず手を伸ばす。
目が覚めた。私はベッドに仰向けに寝そべって、天井に向かって手を伸ばしていた。頬に流れた涙の痕が残っている。
私は掛布団を押しのけて起き上がった。枕元には橋本紡先生の『九つの、物語』が置いてある。
寝る前にこの本を読んだから、あんな夢を見たのかな。私はそんなことを思った。小指には指切りの感触が指輪のように巻き付いているかのようだった。
ふと思う。あれはもしかしたら、私じゃなくて彼の夢だったのではないかな、と。
彼が後を追いかけてくる私に生きてほしくて、私にお別れを告げる夢を見たのではないだろうか。私に別れを言っていないままであることを、きっと彼が一番悔いているだろうから。
あれが現実であろうとなかろうと、どっちでもよかった。ただ、私は朝食を作るべく寝床から出る。
生きよう、そう思った。だって、彼がいなくても、地球は今日も回っているし、私の物語も続いているのだから。
彼女が喪失を取り戻すための九つの物語
泉鏡花の『縷紅新草』を読んでいたら、お兄ちゃんが部屋に入ってきた。びっくりした。思わず何度も瞬きを繰り返してしまったくらいだ。
お兄ちゃんは以前とまったく変わらぬ様子で私を見て、それから深々とため息を吐くと、勝手に部屋には入っている私を咎めた。
そこは私の部屋ではなく、お兄ちゃんの部屋だった。私が寝転んでいるベッドは、もちろんお兄ちゃんのベッドだ。室内に私のものはひとつもない。
お兄ちゃんが呆れるのもわかる。勝手に入れば、それは怒るだろう。私は素直に謝った。私は本当に本当にびっくりしていたのだ。
お兄ちゃんは勉強机の椅子を引っ張り出すと、だらしなく腰かけた。ふう、と疲れた息を吐いている。何気ない感じで、以前のように、ただ気軽に喋る。
お兄ちゃんはベッドの方に近づいてくると、私にどけよと言った。なによと不機嫌に言いつつ、私はベッドの端に身体を寄せた。空いたスペースに、お兄ちゃんはごろりと寝ころんだ。
上下の睫毛の重なり具合とか、鎖骨の少し上に浮き出る腱とか、頭の下で両腕を組んで寝ころぶ姿とか、なにもかもが記憶のままだった。
ここにいるのはお兄ちゃんだ。改めて、私は思った。確信した。間違いない。お兄ちゃんなんだ。
お兄ちゃんとトマトスパゲティを作る。久しぶりの、お兄ちゃんのパスタだ。とてもおいしそうだった。
食事が終わってからも、私たちはそれぞれの部屋に引き揚げず、キッチンの隣にあるリビングで過ごした。
お兄ちゃん、と言った。私は、そろそろ我慢の限界に近づいていた。何が起きているのか、あるいは起きていないのか、確かめるべき時だ。
普通に喋れた。一緒にトマトスパゲティを食べた。ちゃんと触れた。お兄ちゃんは確かに実在している。
「どうしてお兄ちゃんはここにいるの」
お兄ちゃんは死んだ。私は、お兄ちゃんの死に顔を見た。お葬式に出た。墓もすでに建てられている。だとしたら、この、目の前にいるお兄ちゃんはなんなのだろう。
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