テスカトリポカ。「煙を吐く鏡」という意味を持つ、アステカの神のひとり。アステカ文明を研究対象に選んだ僕は、その実態を知るために、専門書の他にもうひとつ、佐藤究という作家の書いた、同名の小説に目をつけた。
『テスカトリポカ』。文学界に権威のある賞をいくつも獲得して話題になった作品である。研究のことを差し置いても、一度読んでみたいと切望していた。
あらすじだけを見ると、一見、裏社会のビジネスを手掛ける密売人やカルテルを描いたノワール小説のようだ。しかし、それはこの小説の全容を見据えるうえでの、ほんのひとつの顔でしかない。
現代の裏社会の暴力と冷徹な資本主義の闇。その裏には、古代のアラスカ文明における信仰がある。どちらか一方では意味がない。その両者を理解してこそ初めて、この小説は真の顔を見せてくれるのだ。
いくつもの顔を持つ。まさしくテスカトリポカのようだ。かの神もまた、いくつもの名前を持っている。煙を吐く鏡。両方の敵。夜の風。我らは彼の奴隷。
大英博物館には、テスカトリポカの祭祀に使用されたとされる仮面がある。黒曜石と翡翠のモザイクに、貝のリングと黄鉄鉱の目玉。口には本物の人間の歯。その仮面は、『テスカトリポカ』の表紙にもうっすらと不気味に浮かび上がっている。
しかし、世界を創造した神とまでされたテスカトリポカは、キリスト教によって悪魔にまで身を堕とされた。彼らがもっとも大切にした信仰は邪教とされた。
アステカ文明は、太陽を崇拝した。テスカトリポカは太陽そのものの側面も併せ持つ。アステカ文明は神を畏れ、敬い、彼らのために人間の生贄を捧げたという。
テスカトリポカの祭祀は、現代の感覚から見ると常軌を逸している。一年間豪華な食事を与え、王よりも高い身分として敬い、四人の美しい少女を宛がった少年の心臓を捧げる。そしてまた、新たな生贄が選ばれるのだ。
テスカトリポカは人身御供を好んだらしい。アステカの人々は神に生贄を捧げて神の怒りを鎮めた。テスカトリポカと彼らとの関係は、そのまま神の別名にも表れている。我らは彼の奴隷、と。
現代の私たちから見れば、彼らの信仰はおぞましいもの以外の何物でもないだろう。キリスト教や科学という信仰が蔓延した現代からすれば、なおさら。
マヤ文明。アステカ文明。インディアン。多くの文明や民族が、すでに過去の歴史の一部となった。当時のキリスト教は野蛮な未開人の宗教から人々を救うべく、侵略し、彼らの文化を自分たちの色に染め上げた。
けれど、彼らの儀式を忌まわしいものとして見るのは、私たち側の視点でしかない。宗教に深い興味を持たない日本人や、科学を絶対的なものとして見る現代人、自分たちの信仰以外を認めないキリスト教の視点でしか。
彼ら自身にとって、その儀式は神聖なものだったのだ。何よりも大切なものだった。それを邪悪なものとして無理矢理に奪われた彼らは、どんな気持ちだったろう。
僕が彼らの文化を研究対象に選んだのは、虐げられた彼らの信仰を、知りたいと思ったからだ。ただの歴史としてでなく、彼ら自身の想いを。
それはきっと、現代の私たちの想いよりも鉄臭く、純粋だ。私たちが忌まわしい邪教として嫌っている彼らの文化の方が、よほど美しいもののように、私には見える。信仰とは、本来、社会とは無関係の、無垢なものなのだ。
金と科学。信仰心の薄い日本人は、代わりに資本主義と科学技術の信徒となった。神はいないと断ずるからこそ、平気で人を騙し、傷付ける私たちは、『テスカトリポカ』のバルミロと何も変わらない。
信仰とビジネス
メキシコ合衆国の北、国境を越えた先に〈黄金郷〉がある。そう信じ込み、そう信じ込まずにはいられなかった人々がいる。
砂塵の彼方の赤茶けた夜明けに向かって、道なき道をひた歩く者たち。岩とサボテンの荒野で命を落とす危険もかえりみず、十字を切り、疲れ切った足を引きずって進む。
だが、全員が無事に旅を終えられるわけではない。それでも人々は、出口のない貧しさの連鎖から抜け出そうとして、国境を目指し続ける。どうしても辿り着かなくてはならない。太陽のように燃え盛る資本主義の帝国へ。アメリカへ。
メキシコ北西部、太平洋側の町に生まれたルシアも、できるならそうしたかった。国境を越えてアメリカへ行ってみたかった。だが、彼女はそうしなかった。国を出たが、結局、北には行かなかった。
一九九六年。ルシア・セプルベダは十七歳の少女だった。インディオとスペイン人の血を引くメスティーソ。つややかな黒髪と、その髪よりもさらに色濃い黒曜石のような大きな黒い瞳をしていた。
彼女の生まれたシナロア州の州都クリアカンは、事情を知らない観光客には、ごく普通の町のように映るはずだった。しかしその町には、法とは別の秩序があった。
暴力と恐怖。町は戦場に等しかった。いつまで待っても国連軍が介入してこないようなタイプの戦争がつづいている。
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