私は特別な人間だ。他の人たちとは違う。だが、私には、それだけしかないのだ。
私が物語を描くことに魅せられたのは大学生の頃だった。サークルの活動で、私は初めて自分の作品というものを創った。
初めてだったのにもかかわらず、おもしろいほど筆が進んだ。楽しい、と感じたのは久しぶりのことだ。
大学の教授に文章を褒められることが多くなった。講義の時に私の感想だけ読まれるのは顔から火が出そうになったが、反面、誇らしくもあった。
他の人たちの小説が自分のよりも優れているとは思わなかった。本を出しているプロにも遜色はなかろうとすら思っていた。
ようするに、天狗になっていたのだ。自らの才能を過信し、周りを見下すようになっていた。
そんな私の目を覚ましたのは、一冊の小説であった。それは、辻村深月先生の『光待つ場所へ』という。
短編集である。中でも私は、最初の短編に心を突き刺されたかのように感じた。
語り手は美術大学に通う女性である。名を清水あやめという。彼女は優れた絵の才能を持っていた。
『造形表現』の最初の講義にて、教授が生徒の提出した作品を発表するという。なんでも、群を抜いた完成度の作品があったのだという。
あやめはそれを聞いて、自分の作品なのだと確信していた。並木の並ぶ小道を描いた彼女の作品は、美しく見えるように技巧を凝らした力作であった。
ところが、いざ発表されたのは、映像作品だった。それも、彼女と同じ小道を題材としたもの。
美しく魅せるための工夫を凝らした彼女の絵画と違って、その映像はありのままの小道の姿を映し出していた。
しかし、美しい。その小道がありのままでも十分に美しいことを知らしめられて、彼女は打ちのめされてしまったのだ。
私は気づけば、彼女と私自身を重ね合わせていた。そのことに気付き、はっとする。
最初のほんの一部分だけで強く共感を覚えさせられたことに、私は愕然とした。それこそまさに、私が打ちのめされた瞬間であった。
今まで自分が書いてきた物語を思い起こす。今にしてみると、どうしてその作品で私はあれほど思い上がることができたのか。
物語の共通した価値は、読者に感情を呼び起こさせることだ。楽しみ、共感、興奮、恐怖、感動、悲哀。
それができて初めて、読者と作品が向き合うことができる。それは、もはや言うまでもない基本といってもよかった。
そうでなければ、そこには作者の自己満足の産物だけで、何も生み出さないただの文字列があるだけに過ぎない。私の作品はどうだったか。
友人から評された言葉を思い出す。きれいだが、内容がない、と。私はそれを、「虚無を描いたのだ」と自慢げに話していた。
何が虚無だ、といいたい。そんなものを読んで誰が楽しいと思うのか。それこそまさに虚無ではないか。
頭を抱えたくなる。が、もう遅い。黒歴史とはまさしく今生まれたようなもののことを呼ぶのだろう。
私は物語を創るひとりとして大切なことを忘れていた。今ようやく、私は本当の光に辿り着くことができたのだ。
理想と現実の狭間
薄暗い部屋の中、たった三分間のフィルムが私に見せた世界は美しかった。私を打ちのめすには、充分すぎるほどに。
『造形表現』はいわゆる一般教養と呼ばれる普通科目だ。講師を受け持っている教授は大学内でも特に有名な人気講師だった。
自由に世界を表現すること。絵画でも写真でも映像でも、塑像でもなんでもいい。作文だって、詩だっていい。世界を表現してみせろ。才能を見せてみろ。それが受講条件だった。
私が描いたのは、大学の桜並木だった。その絵は、ただ写実的に描いたわけではなかった。
桜は美しく、若々しく見えるように。花の間を通る道が、薄く色づいて見えるように。『幸せの小道』というタイトルをつけた。
絵を提出して数日が過ぎ、大学構内の提示板に授業の履修資格をもらえる合格者の名前が貼り出され、そこには私の名前もあった。
「毎年、こうやって受講者を試験させてもらってるんですが、今年はすごい。その中でもさらに抜きん出ているものがあったので、初回の授業はそれを見てもらおうと思います」
頬が熱くなる。彼の言うそれは、私の絵だという確信があった。恥ずかしかった。その作者が自分であるという事実を隠したいという気恥ずかしさと、逆にそれを宣言したいという誇らしさの間を揺れる。
黒板の前に壁掛け用のスクリーンが広げられた。OHPだろうか。絵画を拡大して見せるための。
予感が外れたことを悟ったのは、スクリーンの前、教室の中央にビデオデッキが設置されたのを確認した瞬間だった。
抵抗する想いをよそに、フィルムの上映が始まった。映ったのは空だった。
空の中を、クモが流れる。他には音楽も何もない。カメラが下を映し、画面に桜が入った。映し出された地面は、私の書いたあの道と同じ場所だった。幸せの小道。
フィルムが私に見せた世界は美しかった。技法の名前は知らない。しかし、映像だけで充分だった。私を打ちのめすのには、充分すぎると言えた。
「さて、これを撮った法学部の田辺くんは、本日来ていますか?」
清水あやめ。T大学文学部二年生。生まれて初めて味わう、圧倒的な敗北感だった。
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