海に潜む白い怪物『白鯨』メルヴィル


泳ぐ男の前で、彼を見据えるのは、あまりにも巨大な目。あの時に見た、映画の宣伝ポスターの恐ろしさが今も忘れられない。

 

あれはいつだったか、テレビでやたらと『白鯨との闘い』という映画が宣伝されていた。そのポスターがあまりにも怖ろしくて、実際に見ていないにもかかわらず、その映画の名前は私の心に深く刻み込まれている。

 

メルヴィルという作家の、『白鯨』という作品を知ったのはその後のことだった。なるほど、『白鯨との戦い』はこの作品を原作としているのか。と思っていたが、どうやら違うらしい。

 

『白鯨との闘い』は、『白鯨』の物語のモデルとなった捕鯨船の事故を描いた作品だ。作中で、主人公のメルヴィルの手によってフィクションとしての『白鯨』が描かれるのである。

 

では、その『白鯨』とは、いったいどんなものなのか。モームの世界十大小説に数えられたり何度も映画化されたりと、評価はすごく高い作品だということはわかるのだけれど。ということで、読んでみることにしたのである。

 

だが、読み始めてすぐ、私は辟易してしまった。冒頭からワクワクと胸を躍らせた私を迎えたのは、つらつらと連なる、さまざまな出版物の「鯨」についての抜粋であった。しかも、ストーリーと関係があるわけでもないようだ。

 

出鼻を挫かれつつもどうにか本編に入るものの、実際に航海に出るまでに随分と時間がかかる。読みにくい作品とは事前に知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。

 

ただ、主人公が人喰い人種の男と仲良くなるシーンは面白い。ストーリー的な面白さではないけれど、彼らのどこかズレたやりとりはストーリーの重さに反した楽しさがあった。

 

とはいえ、心に残ったのはそれくらい。物語はあちらこちらに飛び回って、なかなかストーリーを掴み取ることが難しい作品だった。

 

どうにか読み取れたのは、こんなものである。今までいくつかの商船に乗ってきた主人公のイシュメールは、思い至って捕鯨船に水夫として乗ることにした。

 

乗り込んだ船を率いるのは、エイハブという片足の男である。彼はかつて白いマッコウクジラに片足を奪われ、その鯨に対して復讐を誓っていた。

 

その鯨は「モビーディック」と呼ばれており、近隣の捕鯨船の間でも凶暴な鯨として怖れられていたらしい。

 

復讐心を胸に秘めてモビーディックを追いかけるエイハブ船長と船員たち。やがて、エイハブ船長の狂気が彼らを支配し、吞み込んでいく。

 

これだけの大長編にもかかわらず、ストーリー自体の本筋は少なく、ましてや肝心の白鯨と相対するのは、クライマックスのほんのわずかしかない。

 

そこから感じるのは、「鯨」という自然が生んだ巨大な存在に対する、人間のあまりにもちっぽけな存在である。彼らの長い物語は、鯨のほんの気まぐれひとつであっけなく終わりを迎えるのだ。

 

昔からずっと、「鯨」は尋常の動物とは一線を画した存在であり続けた。その巨大さは時として神のように崇拝され、かと思えば動物と同じように狩られて食される。

 

優れた知性を持ち、人よりもはるかに長い時間を生きる彼ら。「鯨」の扱いは長年多くの人々の議論の的となってきた。

 

だが、どうして人はそもそも、「鯨」の保護などを謡っているのか。それは、自分たちを鯨よりも上位だと捉えた人間の傲慢ではないのか。

 

そんな人間の思い上がりなど、尾の一振りで思い知らせてくれる。その混雑した物語の中にあるのは、「鯨」に対する畏怖であり、同時に自然に対する崇拝である。

 

だからこそ、この作品が名著のひとつに数えられているのではないのか。あの映画のポスター。人を見下ろす巨大な目。私がその目に感じた恐怖こそが、この『白鯨』という作品の真髄なのかもしれない。

 

 

白い妖怪モビーディック

 

まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ。懐中は文無し同然、陸地ではこれというおもしろいこともないので、しばらく船に乗って、水の世界を見て来ようと思った。

 

わがマンハットーたちの由緒ある島の都、インドの島々が珊瑚礁にとりまかれているように、ぐるりと波止場を帯にしているこの港――交易の波が八方から押し寄せるのが、この市だ。

 

さて、わたしは海へ出てゆくと言ったが、これには旅客として海へ行くという意味は少しも含まない。要するにわたしは海へ出る時は、平の一水夫としてゆくのだ。

 

わたしがつねに一水夫として海へ行くのは、わたしの骨折りに対して、かならず金を払ってくれるからだ。最後にもうひとつ、前甲板の勤務が衛生的で、空気も清潔だからである。

 

だがまあ、どういう理由か、こんなふうに商船の水夫として幾度か海の香をかいだあとで、わたしは今度は捕鯨船に乗り組むことを思いついてしまった。

 

これらの動機のうちの主要なものは、あの偉大な鯨というものについての圧倒的な観念だった。この不気味な、神秘的な怪物が、わたしの好奇心を、すっかり湧き立たせてしまっていた。

 

だいだいこういった理由で、捕鯨船行は喜ばしきものとなった。わたしのこころの奥底ふかく、はてしもなく行進する鯨の行列が流れ込み、その行列のちょうど中央に、頭巾をかぶったような大頭の、怖るべき妖怪――空中にそばだつ雪山のような姿があった。

 

 

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