経験をもとにした自伝的小説『ブラザー・サン シスター・ムーン』恩田陸


 蛇は泳ぐ。友人が自慢げに語るその豆知識を、私は聞くよりもずっと前から知っていた。けれど、どこから知ったのだろう。

 三匹の、蛇が、絡まり合いながら、川を、次第に彼らは分かれていく、そんな光景が明確な像をもって、私の頭の中で再生されていた。

 けれど、私はそんな光景を見たことはないはずだった。そもそも、蛇すら滅多に見ないのだから。なら、どこで知ったのだったか。

 ああ、思い出した。本で読んだのだ。恩田陸先生の『ブラザー・サン シスター・ムーン』。その中で、見た。

 作者である恩田陸先生の経験がもとになっている自伝のような作品なのだという。

 出てくるのは、三人の男女だ。小説家になった綾音。バンドマンの衛。そして、映画監督になった一。

 彼らは同じ高校の同級生で、仲が良かった。彼らは同じ大学に進学するが、次第にその距離は疎遠になっていく。

 彼らは蛇だった。一時、同じ川を絡まり合いながら泳いでいくも、次第に三匹は離れ、別々の道を生きていくこととなる。

 私は目の前に座る友人を見つめた。彼は証券会社の営業に勤めることになったのだという。そして、私が内定をもらったのは、小売店の店員だ。

「ねえ、小さい頃、何になりたいとかって、憶えてる?」

「ああ? 何だよ、突然」

 彼は自分の話が遮られたことに不機嫌そうにしていたけれど、やがて、そうだなあと思い出すように首を傾げた。

「俺は、そうだな、ゲームを作りたかったんだ」

「ゲーム?」

 そう。彼は頷く。

「当時はゲームボーイが出たくらいの頃でな、初めてやった時は衝撃だったよ。それで、俺も作りたいと思うようになったんだ」

 彼は懐かしそうに語る。私は、ふと、その姿に違和感を覚えた。

「今は、なろうとは思わないの?」

「はあ? いやいや、無理だし。それに俺、もう内定もらっちゃってるしな」

 彼が苦笑いしながら言うのを聞いて、どういうわけか、私の胸がずきんと騒いだような気がした。

 小さい頃、私は本を読むのが大好きだった。それで、将来の夢を書く時に、私はたしかに「小説家」と書いたのだ。

 小さい頃の私たちは素直な気持ちで書いていたはずだ。大人になった自分を思い描いて。

 けれど、その距離が近づいてくるにつれて、私たちはいつしか、その願いを見ないようになった。

 自分の中で今もなお、ひっそりと輝いているその夢を、必死に気付かないように奥へ奥へと押し込んで、見ないふりをするようになっていた。

 夢なんて、叶うわけがない。高校では、それを言ってはいけない空気が蔓延していた。大学生になり、就職が目前になってくると、なおさらだった。

 いつまでも夢を追いかけていないで、現実を見ろ。大人になれ。誰もがそう言ってくる。未だにそんな子どもみたいなこと言ってるの。ダサいわ。そんな声が聞こえるような気がする。

 私がそれが当然だと思っていた。そこに、ふと、疑問を覚えるようになったのは、『ブラザー・サン シスター・ムーン』を読んでからだった。

 本来なら、これから大人になる今こそが、夢を追いかける期間のはずだ。それなのに、私たちは最初から諦めている。

 彼は営業、私は店員。小説家でも、ゲームクリエイターでもない。私たちは夢を追いかけることなく、現実を見ていた。

 これでいいのだろうか。ふと、そんなことを思う。私たちは好きなことをしたい欲望と熱の傍らで、冷静に現実を見据えている。夢なんて最初から諦めて。

 どうして、諦めたのだろう。きっとそれは、夢に破れたくないからだ。自分にはそれができないのだと知っていて、挫折したくないからだ。

 私たちは、誰もが夢に挑むことを怖がっている。その前に立ちふさがる現実を目の当たりにすることを、何より怖れている。

 私は結局、小説家になんてなれず、小売店の店員として過ごすことになるのだろう。それは、この上なくつまらないんだろうな。卒業間際の私は、そんなことを思っていた。

人生の中の幕間

 狭かった。学生時代は狭かった。広いところに出たはずなのに、なんだかとても窮屈だった。

 馬鹿だった。学生時代のあたしは本当に馬鹿だった。おカネもなかったし、色気もなかった。二度とあんな時代に戻りたくはない。

 ようやく自分でおカネを稼げて、いちいち誰かにお伺いを立てずに済むようになったのに、あのクソつまんない学生時代に戻らなきゃなんないわけ?

 女子大生ブームっていうのがあったのだ。「女子大生」というのが記号となって、みんながその記号にちやほやしたり、馬鹿にしたりしていた。問題は、同じ時期、あたしも女子大生だったことである。

 誰でもない時代。引き延ばされた猶予期間。インターバル。幕間。それがあたしの四年間だった気がする。

 最初から学生時代を「狭い」と感じていたわけじゃない。むしろ、入学したての頃は、あまりの自由に呆気にとられ、放し飼いになったことに大いに戸惑っていた。

 どこに行ってもいい。何をしていてもいい。ずっと起きていてもいいし、寝ててもいい。なんて寛大な! ほんとにいいんですか? 怒らない? ホントーに?

 勝手にすれば? こちとら、毎年田舎からわらわら湧いてくるガキになんて、全然興味ないから。……そんな感じ。

 記憶って本当に不思議だ。順繰りに収まっているのではなく、まさに「順不同」で四年間があたしの中でひとまとめになっている。こうして思い出すのも、断片ばかり。

 本音を言えば、あんまり学生時代のことは話したくないのだ。そもそもあまりにも平穏で、たいした話もない。

 そのくせ、妙に痛い気がするのだ。あの無為さ、愚かさ、平凡さが、時を超えて心の底で鈍く痛む。

 すべてがちぐはぐでぎくしゃくしていた。そこから踏み出せばおのれのキャパシティを広げることができただろうに、何もすることなく広がる機会を逸したまま時を過ごしてしまったような気がする。

 わかっている。本当はわかっているのだ。いろいろな記憶の断片を拾い集め、四年間を語ろうとしているふりをしているけれど、その実、通るべきところを迂回している。

 肝心なところに触れることをあたしは怖れている。忌避している。嫌がっている。だからこそ、人はどうでもいい細部を語るのだ。

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