「電車の中ではいろいろなことがある」
吊革につかまって電車の揺れに合わせて左右に身体を揺らす中年のサラリーマンが、窮屈そうにネクタイを少し緩めている。
その隣にいる女子高生は吊革を掴んでいない方の手でスマートフォンを黙々と眺めて指を走らせていた。
満員電車の中で席に座ることができた私は幸運だった。しかし、その気持ちは霧散しつつある。
隣の席に座っている老人が話かけてきたからだった。杖を突いて、深々と被った中折れ棒の鍔下からは細い瞳が覗いている。
「え、ええ、そうですね」
私が戸惑いながら返したが、彼は相変わらず視線をこちらに向けないまま話し続けている。これは妙な老人に捕まったものだ、と内心で嘆息した。
「たとえば、『阪急電車』では電車の中で起こる様々なドラマを短編集として書きだしたものだ」
『阪急電車』はたしか、有川浩、だったか。
読んだことは、と聞かれて私は首を横に振る。あまり本が好きではない私が過去に読んだことがある本は数えきれるほどしかない。
「ふうむ、そうかね。ならば、アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』はどうだろうか。エルキュール・ポアロのシリーズなのだが」
私はまた首を横に振る。とはいえ、題名は聞いたことがあった。2017年に映画にもなっていたはずだ。
「今、私たちが乗っている山手線は多くのドラマを生んできた。恋も、事件も、出会いも、別れも」
私も昔、電車の中で酔っ払いの老人に絡まれて辟易したものだが、それもまたいい思い出だよ。彼はそう言って懐かしむような笑みを浮かべた。
「七尾与史の『山手線探偵』は知っているかね」
あ。私は思わず声を出してしまったことに、出した後に気がついた。幸いにも隣にいる老人以外には聞こえていなかったらしい。私は小さく頷いてみせた。
七尾与史先生の作品は私がはまり込んだ数少ない本である。『ドS刑事』を読んですっかりはまってしまったのだ。
『山手線探偵シリーズ』も彼が手掛けた作品である。
私はミステリの重い空気が苦手で、あまり読むことができないのだが、七尾与史先生の作品はユーモラスで楽しく読めるのだ。
キャラクターもそれぞれが魅力的で、どこか心が温かくなるような作品だった。
「そうかね。ならば、ちょうどよい。君、ひとつ、問おう」
老人はそこで初めて私の方を見た。彼の瞳はまるでエメラルドのような鮮やかな緑に輝いていた。
電車の中の出会いと別れ
「ほうら、あそこを見たまえ」
老人が視線で指し示したのは、彼がさっきまで視線を向けていたところだった。
そこに視線を移すと、視界に映ったのは大人しそうな年若い女子高生と、茶色のスーツを着た中年男性である。
私が怪しいと思ったのは、彼が妙なほどに女子高生の背後に立っていることだ。ともすれば、密着しそうなほどである。
「電車の中では良いことも悪いことも起こる。『阪急電車』のような恋が生まれることもあれば、『オリエント急行の殺人』のように事件が起こることも」
老人は力なく首を振る。その瞳には深い慈愛が込められていた。垂れた眉は彼の悲しみを訴えている。
女子高生は身体を震わせているようだった。涙の滲んだ顔が蒼白になっている。
周りの乗客には、気づいていない人と気付いている人がいるようだった。気付いている人はしかし、気遣わしげに視線を送るだけで声を上げようとはしない。
「さて、聞こう。君は、どうする?」
老人は試すような色を湛えて私を見た。私は改めて彼女と男性を見る。
「彼女の周りは誰も声を上げないだろう。自分の助けたいという気持ちに、いくつもの言い訳を用意して助けなくてもいいという結論へ流していく」
どうしてだと、思うね? 私は答えない。
「彼らは目立ちたくないのだよ。あくまでも移動手段でしかない電車は目的ではなく半ばであり、こんなところで立ち止まってはいかぬと考えているからだ」
だが、そのためにひとりの少女が犠牲になろうとしている。老人は無念そうに言った。
「……助けろ、とは言わないのか」
老人は首を横に振った。
「人に選択を強要するわけにはいかない。提示は出来ても、それを選び取るのは君自身でなければならないのだ」
さあ、どうする? 老人は厳かな口調で言う。
私は少し目をつぶった。いろいろな考えが私の中で集まって、やがてひとつの覚悟になる。
それは物語の登場人物になる覚悟だ。電車に揺られるだけのエキストラをやめて、少女を救う役としての。
私は席を立つ。少女と男に近づいて、男の腕を掴んだ。途端、彼は周りの男どもに囲まれて取り押さえられる。
私はちらとさっきまで座っていた席を見てみる。そこにはもう老人の姿はなかった。
山手線にいる伝説の探偵
隣で吊革につかまっている男性の、何度も鼻をすする音がさっきから気になってしょうがない。
道山シホは彼を見上げる。そうこうするうちに電車は渋谷駅に到着する。乗客のほとんどが降りて一気に閑散としたが、すぐにそれを上回る客が乗り込んでくる。
霧村さんは三十五歳と言っていた。シホの父親が四十歳だから少しだけ年下だ。だけど霧村さんはそれ以上に若く見える。
二つ三つ駅を過ぎるとまた少し客が減って楽になる。客の多くはケータイやスマートフォンの画面を眺めていたり、携帯ゲーム機で遊んでいる。
長身の霧村さんよりさらに背の高い男が近づいてきた。霧村さんの目つきが柔らかくなった。
声をかけてきた男性は霧村さんの友だちの三木さんだ。三木幹夫という名前なので「ミキミキ」と呼んでいる。
霧村さんは私立探偵だ。以前、上野駅近くの雑居ビルに「霧村雨探偵社」という事務所を構えていた。
しかし経営が上手くいかなかったようで、家賃が払いきれずにビルを追い出されてしまったそうだ。
そこで新しい事務所を見つけるまでこの山手線を事務所代わりにしているというわけである。知る人ぞ知る、山手線探偵だ。
しかし、電車の中での商売は禁止されているからこっそりと展開しているわけだが、問題は霧村さんが他の乗客と区別がつかないことだ。
ミキミキさんは霧村さんをモデルにした探偵小説を書いている自称ミステリ作家だ。本を二冊出しているらしいが、その出版社はもう存在していない。
「もうやめてください! この人、痴漢ですっ!」
突然、車内に女性の喚き声が上がった。声の主はゲーム機を持っている美しい女性だった。彼女は男の手を掴み上げている。
男性はスーツ姿のサラリーマンだった。年齢は二十代後半から三十といったところか。その彼は真っ青な顔をものすごい勢いで左右に振っている。
男性は否定するが、彼女の周りにいた男性二人と女性一人が手を挙げながら証言を名乗り出た。大学生の若者と白髪の目立つ初老、年配の女性である。
いつの間にか周囲の男たちが、男性を逃げられないように抑え込んでいる。
やがて電車は大塚駅に到着した。扉が開くと、被害者の女性徒目撃者の三人といっしょに男性が外に連れ出された。
突然、霧村さんが電車を降りる。その後をミキミキさんが追いかけていく。シホもいっしょについていった。
霧村さんはホームの中ほどで男性を取り囲んでいる集団を遠巻きにして眺めている。やがて、係員が警察官を連れてきた。
取り押さえられた男性は必死に無罪を訴えたが、三人も目撃者がいるものだから信じてもらえない。
警官は被害者の女性徒目撃者三人の氏名と住所を手帳にメモしている。
「あの、ちょっといいですか」
突然、霧村さんが右手を挙げながら警官に声をかけた。
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