民俗学の目指すべきところ『始まりの木』夏川草介


我々日本人とは、いったい何者なのか。「日本に住む人」などという単純明快な解答もまた正解のひとつではあるが、決してそれだけではないだろう。その答えの深奥をより深くまで探っていくのが、或いは、「民俗学」という分野なのかもしれない。

 

「民俗学」など何の役にも立たないじゃないか。そういう声もあるだろう。たしかに、日本人とその文化について学んだとしても、就職で役立つ資格が取得できるわけでもなく、儲けになるわけでもない。

 

しかし、夏川草介氏の著作『始まりの木』の中に、その答えとしての、実に的確な解答を見つけたので、それをここで引用するとしよう。

 

「民俗学は就職の役には立たん。だが君が人生の岐路に立った時、その判断を助ける材料は提供してくれる学問だ」

 

これは、作中に登場する民俗学者、古屋の言葉である。『始まりの木』は、この古屋と、彼に師事する女子大生の千佳を中心に描かれていく。

 

今の世の中は、わかりやすく結果につながるものばかりが賞賛されている。誰も彼もが、明快で、かつ簡単に、大した努力もなく目的を達成できる近道ばかりを求めている。

 

就職するためならば資格の勉強を。論文を書く材料はパソコンの検索から拾い上げて再構成する。金儲けの方法が書かれたビジネス書は読むが、小説は読まない。

 

西洋の効率主義は、ゆっくりと自然とともに生きてきた我々を忙しなくさせた。自然を敬うよりも自然を支配し、科学と理論を信奉し、時間と効率のみを追い求めるようになった。

 

だが、果たしてそんなに急いでどこへ行くというのか。金ばかりを稼いで何に使うというのか。時間を短くして、余った時間で何をするのか。

 

効率化の本質は、ゴールのないレースである。私たちはただただ、何かに追われるかのように走り続けている。抜きつ抜かれつつ、置いていかれることを恐怖し、最期には道半ばで倒れてしまう。

 

かつての日本は、そうではなかった。なるほど、たしかに貧しかったのかもしれない。今はずっと物質的に豊かになった。もはや飢えることが難しい社会である。

 

しかし、その代償として、我々は日本人としての心を失った。愛国心も、自然に感謝する心も、文化も、誇りも。我々は西洋の文化と混じり合い、効率を追求し、科学を信奉する「現代人」という名の怪物となった。

 

生活水準が豊かになり、飢えて亡くなるようなことが少なくなった現代を「悪い」というわけではない。現代にもまた、良いところはあろう。

 

しかし、西洋化することで我々が失ってしまった日本人の心は、日本人を日本人たらしめる、世界で唯一の民族として小さな極東の島国に生き続けた我々の誇りの源泉であったかのように思うのだ。

 

我々日本人の行く末を、『始まりの木』に登場する坊主は、「亡びるだろう」と言った。「物質的に豊かになったが、精神的にはかつてないくらいに貧しい」と。

 

豊かな生活になって、我々は幸福か。否。幸福ではないと答える人が多かろう。我々は今もなお、飢えているのだ。かつてよりひどく。

 

私が民俗学を愛するようになったのは、『始まりの木』を読んだことがきっかけだった。この本は、学校で教わることよりもはるかに大切なことを教えてくれたのだ。

 

効率化を謳う我々が、蔑ろにし、足蹴にし、踏み荒らしてきたもの。物質的な豊かさと効率と利便性のために、犠牲にしてきたもの。

 

それがいったい、どんな価値を持っていたのか。かつて日本人は、何を大切にしてきたのか。どんなものでも手に入れることができるようになった我々が、失ってしまったものとは何か。

 

そう、全てはこの木から始まったのだ。

 

 

自らの足で

 

九月の弘前は、いまだ夏の名残りを濃厚に残していた。時候は既に秋の入り口だというのに、照り付ける日差しはまるっきり真夏のそれで、駅のホームに光と影の濃厚な陰影を刻みつけていた。

 

特急『つがる』から弘前駅のホームに降り立った藤崎千佳は、額の上に白い腕をかざし、北国の空を眩しげに見上げた。

 

リュックサックを背負ったまま、小型のスーツケースをホームにおろし、ジーンズのポケットから出したハンカチを首筋に当てたところで、千佳は我に返って慌てて辺りを見回した。

 

すぐに彼女が視線を止めたのは、ステッキを突きながらまっすぐに階段へ向かう痩せた男の背中である。豊かな頭髪にはところどころに白いものが混じり、よれよれのジャケットから伸びた右手には傷だらけのステッキを握っている。

 

その後ろ姿だけでも独特の存在感があるが、こつりこつりとステッキを突くたびに大きく肩が上下して、左足を引きずり気味に歩いていくその姿が、衆人の目を引くこと疑いない。千佳は、軽く安堵の息を吐き、それから右手をあげて、よく通る声を張り上げた。

 

「先生、待ってください!」

 

ステッキを止めて振り返った男は、手を振る千佳に冷ややかな一瞥を投げかけると、これ見よがしにひとつため息をついてから、再び背を向けて歩き出した。

 

 

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