何も疑うことなく、全ての人、全ての存在を愛し、嘘を吐かず正直者で、無欲であり、まるで赤子のように純粋な人間がもしもいたとするのなら、君はそいつを受け入れるだろうか。
さて、ここで問うけれど、君は、悪人かね? ん? 違う? ならば善人か。そうか。なるほどなるほど、君は自分のことを善人だと思っている。
だが、それならばどうして、君はこの社会で、そんなふうに、まともに生きていられるのかね? おや、何だい、その顔は。善人だから牢獄にも入れられず、まともに生きていられるんだ、当然じゃないか、と。
はて、本当にそうだろうか。
では、君はこう言うのかね。悪人は罪を犯して牢獄に入るだろう。だから、牢の外にいる人間はみな善人だ、と。ははは、とんだ笑い話じゃないか。
結論はひとつだ。そんなわけがない。法律は悪を断罪するものではないからだ。法律は正義を体現するもののように君は思っているかもしれないが、違う。あれはただのルール。そこには善も悪もない。
いいかね、君が本当の善人であるならば、君はこの社会で生きていられるはずがないのだ。なぜなら、この社会そのものが悪なのだから。
嘘を吐き、人を騙し、他人を蹴落とす。誰もが平然と、晴れやかな笑みを浮かべながらやっていることだ。社会は、そんな人間でなければ生きていけない。そんな仕組みになっている。
ドストエフスキーの『白痴』を読んだことがあるかね。途方もなく善良で純粋なムイシュキン公爵と、悪辣なロゴージンが、ひとりの女に惹かれるという恋のお話さ。
このムイシュキン公爵は前向きで善良、自らを犠牲にすることすら厭わない、度を過ぎた博愛を掲げている。正直者で嘘を吐かないことを自らに課していて、まさしく「汝の隣人を愛せよ」を体現するような人だ。
彼は、無垢であったがゆえに汚され、邪悪になった美女、ナスターシャに愛を向ける。それは、自分を愛してくれた女性を凌駕するほどに深く、ね。
さて、彼はナスターシャをはじめ、多くの人から好意を持たれる。後に恋敵となるロゴ―ジンも、強欲な秘書ガーニャも。
しかし、結局、彼は誰からも受け入れてはもらえない。その物語に描かれている醜い社会の縮図の中で、善良なその男だけが、浮き上がって見えるのさ。
彼は孤独だ。善良であるがゆえに、彼は誰からも好かれ、しかし誰にも受け入れられない。社会は彼のような存在をまさしく「善」とするにもかかわらず、だ。
「善」は理想だというが、トンデモナイことだ。本当に善良な人間が出てきたら、多くの人は忌避するようになるだろう。
だって、君、もしも君の隣りに善良な、何の非の打ちどころもない人間がいたとするなら、どうだ? 付き合いがあることを誇らしいと思うかね?
おそらくだが、君は本当の善良を目の当たりにすることで、自分自身がいかに邪悪かを知るだろう。そして、自分の中の「善」と「悪」の葛藤に耐えかね、やがてはおかしくなるだろうね。
『白痴』に登場するムイシュキン公爵のように、善良で、正直者で、何事にも真摯に向き合う、そんな人間がいたとするなら、きっとそいつは、ただの頭のおかしい馬鹿に過ぎないのさ。馬鹿だからこそ、善人になるのだよ。
さて、改めて聞こう。君は善人か、それとも悪人か。君は果たして、自分自身が善人であることに、耐えられるのか。
愚かな賢者
十一月下旬のこと、珍しく暖かい、とある朝の九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。
とある三等車の窓近く、夜明けごろから二人の旅客が膝と膝を突き合わせて、腰かけていた。どちらも若い人で、どちらも身軽な、おごらぬ扮装、どちらもかなり特徴のある顔形をしていて、どちらも互いに話でもはじめたいらしい様子であった。
ひとりは背丈の高からぬ二十七歳ばかりの男で、渦を巻いた髪の毛はほとんど真っ黒といっていいくらい、灰色の目は小さいけれど火のように燃えている。
彼はゆったりした毛皮外套にぬくぬくとくるまっているので、昨夜の夜寒もさほどに感じなかったが、向かいの席の相客は、湿っぽいロシヤの十一月の夜のきびしさを、震える背に押し応えねばならなかったのである。
隣の男は、半分は退屈まぎれに、これらのものをすっかり見て取った。やがて、とうとう、無作法な嘲笑を浮かべながら、気のない無遠慮な調子で問いかけた。
「寒いかい?」
「ええ、じつに」と相手は驚くばかり気さくに答えた。
「外国から来たんだね」
「ええ、スイスから」
話はこんな具合で始まった。スイス式マントにくるまった青年が、相客の問いに答える態度は、奇異な感じがするほど気さくで、相手の質問が退屈半分なことなどには、いっこう気が付かないらしいふうであった。
あれこれの問いに答えているうちに、彼はこんなことを話して聞かした。実際、彼は長く、四年余りもロシヤにいなかった。病気のために外国へやられたのである。
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