なぜ人を殺してはいけないのか『罪と罰』ドストエフスキー


たとえば、の話。君の目の前に、そうだな、アドルフ・ヒトラーがいるとしよう。第二次世界大戦を引き起こし、多くのユダヤ人を死に至らしめた男だ。さて、君が手に握っているそのナイフで、彼の命を奪うことは、果たして罪になるのだろうか。

 

そもそも、殺人とは何か。他者の命を奪うこと。では、どうして殺人はしてはいけないことなのだと、言われているのだろう。

 

宗教の教えには、「人を殺してはならない」とある。神がそう言ったから? だが、それならば、神を信じない人は殺人を躊躇う理由がなくなってしまう。

 

家族が悲しむから? 被害者の友人が、恋人が、悲しむから? それじゃあ、孤独な人は殺してもいい、ということにならないか。

 

法律で決められているから? ならば、法律がなければ殺人をしてもいいのか。法律は為政者の都合で二転三転と変わってしまうものだ。もしも殺人を許容する法律が出た時、君はどうするかな。

 

自分がされたくないことだから? なら、殺されたい人は誰かを殺してもいいことになってしまう。そもそも、自分がされたくないことを本当にしていない人なんて何人いるのだろうね。

 

殺人はそもそも「悪」だから? それじゃあ、最初の問いに戻ろう。殺す相手が「悪」ならば、果たして殺していいのだろうか。

 

そういえば、そんな考え方をして殺人をした人がいるっけね。ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくる、ラスコーリニコフ、だね。

 

彼は自分は凡人ではないという考えを持っている青年だ。彼は「世の中が良くなる」という理由で、多額の金を貯め込んでいた金貸しの老婆アリョーナの命を奪う。

 

けれど、彼はその現場を見た彼女の義妹をも勢いで手にかけてしまうんだ。事件の容疑者として疑われたのは、彼が隠した宝石を偶然見つけてしまったペンキ屋だ。

 

さて、失敗はあったものの、彼は幸運にも誰にもその罪を気付かれることなく、当初の予定としてあった殺人を成功することができる。彼はその後どうなったのだろうか。正義を為した達成感に浸ったか。

 

いいや、彼はその後、ずっと罪の意識と、いつ誰に「お前は人殺しだ」と指を突き付けられないかという恐怖に苛まれ続けることになる。

 

この作品の秀逸なのは、殺人を犯した犯人の思考が緻密に描かれているところだ。特に、実行に移す前のラスリーニコフの思考は支離滅裂としていてかなり生々しい。

 

じゃあ、最初の問いに戻るね。どうして殺人はいけないのか。僕はこの問いに対して、この本を読んだうえで、こう思ったわけだ。

 

殺人はいけないことだとは、厳密には言えない。そもそも、戦争になったら一転して、多くの人を殺した方がいい社会になる。所詮、その程度のものだ。

 

だが、問題なのは、自分の中の神様だ。誰もがひとり、心の中に神様がいる。仏といってもいいし、キリストと言ってもいいけれど。とにかく、その神様はずっと君を見ているんだ。

 

それはつまり、自分の良心。罪悪感。罪の意識だね。本当に人の罪を裁くのは、もちろん他人でもないし、法律でもない。自分自身の心が、君の罪を裁くのさ。

 

君がアドルフ・ヒトラーを殺したら、どうなるか。おめでとう。ユダヤ人からは英雄として扱われるだろうね。まあ、英雄だろうが、殺人鬼だろうが、どちらも同じ、ただの人殺し以外の何ものでもないのだけれど。

 

 

殺人は正当化できるか?

 

七月の初め、異常に暑いさかりの夕方近く、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りに出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩き出した。

 

階段口で彼は、下宿のおかみと無事顔を合わさずにすんだ。下宿代がたまりにたまっていたので、おかみと顔を合わせるのが怖かったのである。

 

かつて彼は、こんなふうにも臆病でいじけた青年ではなかった。いやむしろ、それと正反対なぐらいだった。ところがいつの時点からか、心気症にも似た、いらだちやすい、張り詰めた状態に陥っていた。

 

しかし今日ばかりは、表に出るなり、債権者のおかみと顔を合わせるのをここまで怖れていたかと、われながらあきれかえった。

 

《あんな大それたことを決行しようとしているのに、こんな愚にもつかぬことにびくついたりして!》奇妙な含み笑いを浮かべながら、彼は思った。

 

心臓をどきどきさせ、身体を小刻みに震わせながら、一方の壁面が溝に面し、もう一方が通りに面した、とてつもなく大きな建物へと向かっていった。

 

と、そこで、部屋から家具を運び出していた運送屋に、行く手をふさがれた。その部屋にドイツ人の役人一家が住んでいることは、前々から知っていた。

 

《てことは、ここのドイツ人は引っ越すわけだ。つまり四階のこの階段とこの踊り場は、これからしばらくあのばあさんの専用ってことになる》彼はまたこう考え、老女の部屋の呼び鈴の紐を引いた。

 

しばらくして、ドアがほんのわずか開いた。部屋の女主人は、いかにもうさん臭そうに、隙間から来客をじろりと見まわした。

 

「ラスコーリニコフですよ、学生の。一か月前にもうかがったんですがね。それでですね、また用件があって来たんですよ」

 

老女は何か思案するふうにしばらく黙っていたが、やがて脇に身を引くと、部屋のドアを指差し、客を先に通しながら言った。

 

「お入りなさいな、おにいさん」

 

青年が通された小さな部屋は、モスリンのカーテンが掛かっていたが、ちょうどこのとき、夕陽に明るく照らし出されていた。

 

《てことは、きっとあの時も、太陽がこんなふうに照らし出すんだな!……》

 

ラスコーリニコフの脳裏にはからずもこんな考えが浮かび、できるかぎり家具の配置を覚えておこうと、室内にあるすべてのものにすばやく視線を走らせた。

 

 

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