会いたい。その手紙に触れた時、私の心に流れ込んできた想いの奔流は、私を彼の思い出へと押し流していく。
ここは病院らしい。男も女も涙を流している。その腕には、ふぎゃふぎゃと泣き声を上げる小さな赤ちゃんの姿があった。
看護婦たちがおめでとうございますと声をかける。けれど、二人ともその声が聞こえていないかのように、暖かい瞳で生まれたばかりの我が子を見つめていた。
「ありがとう。がんばってくれて、ありがとう」
男が女の手を握って、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、何度も何度もお礼を言っていた。彼もやはり人の子らしい。これほどまでに彼が感情を動かしたところを見たのは初めてだった。
手紙の差出人は彼である。しかし、その手紙はとうとう、彼が本当に伝えたい人たちのもとに届くことはなかった。
場面は移り変わって、どこかの家にいるらしい。彼はパソコンに向かって、文字を打ち込んでいた。
その表情は何かに囚われているような鬼気迫るもので、流れるように文字が羅列されていく。
彼の視線がちらりと壁にかけられた時計に向く。時計の針が十二時を指そうとしていた。それはつまり、彼の娘の誕生日が過ぎるということだった。
彼は視線をパソコンの画面に戻す。私はその彼の思い出を、どこかもの悲しく眺めていた。
私は彼のその作品を知っていた。彼のそれまでの何もかもが変わってしまうきっかけとなった作品だった。
彼はもともと才能に溢れていた。その才能の発露が滞り、スランプになっていたのがこの時期だった。
彼は頭を悩ませ、文字を書いては消すを繰り返していた。寝食すら惜しんで書いていたこの時期の彼は、狂気すら孕んでいた。
その犠牲となったのは、妻と、まだ幼い娘だった。彼は家に帰らず、彼と家族との距離は遠くなるばかりだった。
極めつけは、彼の完成した作品だった。その作品の成功が、皮肉にも彼と家族のつながりを完全に絶ってしまったのだ。
届かない手紙
お前は『ヒア・カムズ・ザ・サン』みたいだな。私の力を知った彼から言われたのは、そんな言葉だった。
その時は意味がわからなかったが、後から聞くと、彼の言う『ヒア・カムズ・ザ・サン』は音楽の、ではなく、有川浩先生の小説のことを指していたらしい。
主人公の真也はものに込められた思いや感情を読み取る能力を持っていた。彼は、そこから私のことを称したのだろう。
真也はその力でずるをしながらも、ほんのちょっとだけ駆使して慎ましくしていたようだが、私はその力で大いに人を傷つけ、人を利用していた。
そんな私が、あまりにも苛烈な思いの強さに圧倒された初めての男が彼だった。そんな彼とまさか親友になるとまでは思っていなかったが。
彼が帰らぬ人となったのは、つい数日前のことだ。不幸な事故だったとしか言いようがない。
彼の手紙を見つけたのは、その後日のことだ。彼の仕事場を整理している時に、引き出しの中に入っていた。
触れた時に、私の頭の中に流れ込んできたのは、彼の、家族に対するあまりにも深い愛情だった。
意識を思い出の映像の中にまで引き込まれるのは初めてのことだった。彼の想いがあまりにも強すぎたのだろう。
彼は机に向かって手紙を書いている。今度、家に帰ろうと思う。手紙にはそう書かれていた。
会いたい。手紙に込められた強烈な想い。それは、家族に対する深い愛情だった。
彼は父としては失格だったろう。家族を顧みることもせず、ずっと仕事に打ち込み続けた彼を、彼の家族は恨んでいるかもしれない。
しかし、彼はたしかに、家族を愛していた。家族に会いたいと思っていた。
私は切なく思う。彼はとうとう家族と会うこともできなかった。謝ることすらできなかったのだ。
その想いが込められた最後の手紙は、今は私の手の中にある。届けなければならない。彼の最期の、家族への言葉を。
作家の胸に秘められた家族への愛
何かに触れて、不思議なものが見えたり聞こえたりすることが幼い頃からよくあった。
見えたり聞こえたりするのはどうやらそこに残された「思い」らしい。そして強い思いほど長く、はっきりと残る。
尺度は世間に合わせておくが、人より余分に見えたり聞こえたりするのは事実である。それなりに反応していたら、結果として聡いということになったり、気が利くということになったりする。
真也は人間関係で泥沼にはまったことがない。そこが泥沼になる時は大抵強い感情が閃くし、真也にはそれが見えるからだ。
苦悩したこともあったが、高校生の恋の失敗をきっかけに少し割り切れた。生まれつきちょっとずるができるんです、ごめんなさい、とせいぜい身の程をわきまえるだけだ。
ずるをしている分、控えめになった。前に出過ぎない、存在を主張しない。それで収支は合うはずだと思っていたが、編集者という職業柄、社会に出てみると少し負い目が増してきた。
若いのに気がつく、若いのによくやる、周囲の評価が上がるにつれて後ろめたさという荷物は膨らまないわけにはいかなかった。
同期のカオルは「余分な」気づきを持っているせいで器用な真也と真逆の編集者だった。
決して器用ではないし、察しがいい方でもないが、懸命に作家に接し、失敗しても一生懸命、失敗を取り返すのも一生懸命。
愚直で懸命なカオルの仕事ぶりはただただ眩しくなった。「余分な」気づきを持っている限り、決して真也が辿り着けない地平にカオルはいる。不器用な代わりにまっすぐで、打たれ強くて、へこたれないと思っていた。
「どうせあたしは一生懸命やるしかないのよ、それしか能がないんだから」
だから、そんなふうに吐き捨てるカオルを初めて見て、真也はどうしたらいいのかわからない。
どうせって言うなよ。俺はお前の一生懸命なところを眩しいと思ってるのに、その枕詞にどうせってつけるなよ。
「あなたに一生懸命ですよってアピールし続けてなくちゃ捨てられちゃうの、父に捨てられたみたいにね」
父親とは二十年ぶりに顔を合わせるという。その対面の場に真也が立ち会うことになった事情は、数週間前の編集会議まで遡る。
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