こんな想い、捨てなければならない。私と彼は敵同士なのだから。いくらそう言い聞かせても、胸の鼓動は止まってくれなかった。
高校生の頃、江戸川乱歩先生の『黒蜥蜴』を読んだ。美貌の怪盗、黒蜥蜴と、明智小五郎の対決を描いた推理小説だ。
高校生の私は妖艶でかっこいい黒蜥蜴のことが大好きだった。口調をマネしようとしていたくらい。
とはいえ、その過去が現在に関係しているかといわれれば、そんなことはない。警察官になったのは、ただの成り行きみたいなものだった。
成績が良かったから。ほんのそれだけの理由だったように思う。とにかく、正義だとか、そんなご立派な精神は何ひとつとして持っていなかった。なにせ、黒蜥蜴に憧れるような女だし。
その本を読んで、私が不思議に思ったのは、明智小五郎と黒蜥蜴の関係性だった。
怪盗と探偵。もちろん、彼らは敵同士だ。それなのに、二人の間には奇妙な信頼関係のようなものがあった。
彼らの策のぶつけ合いは、まるでゲームのやりとりのよう。人の命がかかっているのに、どこかそこには明るさが見える。
そんな二人の関係性が、当時の私にはまるで理解できなかった。でも、今ならちょっとだけわかる。なにせ、私もまた、「敵」を愛してしまったのだから。
未だ捕まらない、彼。実は、私は新人時代の時に、彼と出会ったことがあった。それは、ただの偶然に過ぎなかったのだけれど。
まさか親切にしてくれた紳士が、犯人としてホワイトボードに名前が書かれるとは、思ってもみなかった。
私は、まだ迷っている。彼を捕まえるべきか、と。いや、はたして、彼に想いを寄せている私は、彼を捕まえられるのだろうか。
彼は犯罪者だ。重い罪も何度も犯している。警察の威信としても、必ず逮捕しなければならないと上層部が意気込んでいた。
もう何度も、そう言い聞かせている。あの時の出会いは、彼の気まぐれに過ぎなかったのだと。次に会った時は、私こそが被害を受けてしまうだろうと。
と、その時、けたたましい警告音が鳴り響いた。彼が侵入してきたのだ。上司が怒号を叫ぶ。
私はぐっと拳を握った。その場を離れ、長い廊下の暗がりに立つ。ぼんやりと、意識が霞んだような気がした。
「さあ、迎えに来たよ」
私の肩に手が置かれる。彼がたとえ犯罪者だったとしても、私は彼と共にいたかった。理性がかき消されていく。
彼の差し出された手に、私は自分の手を添えた。だから、みんなは彼が盗んだと言っているけれど、実は、私が盗まれたのだ。自ら、彼の胸に飛び込んで。
探偵と怪盗の知恵比べ
この国でも一夜に数千羽の七面鳥が締められるという、或るクリスマス・イヴの出来事だ。
暗黒街のとある巨大な建物の中に、けたはずれな、狂気めいた大夜会が、今、最高潮に達していた。
自然に開かれた人垣の中を、浮き浮きとステップを踏むようにして、室の中央に進み出るひとりの婦人。黒ずくめの中に、輝くばかりの美貌が咲きほこっている。
たとえ彼女の素性は少しもわからなくても、暗黒街の女王の資格は充分すぎるほどであったが、彼女はさらに、大胆不敵なエキシビショニストであったのだ。
黒天使は今や白天使と変じた。肩を揺すり、足を上げて、エジプト宮廷の、なまめかしき舞踊を、巧みにも踊り続けているのだ。
美しい女の左の腕に、一匹の真っ黒に見える蜥蜴が這っていた。それが彼女の腕の揺らぎにつれて、這い出したように見えるのだ。真にせまった一匹の蜥蜴の入れ墨であった。
お祭り騒ぎのあとの広間で、若者と、女が話をしている。その女とは、先ほど踊っていた暗黒街の女王だった。
聞けば、若者は人を手にかけてしまったという。女は彼を助けるために、彼自身の死を偽装し、若者を山川健作という男に変貌せしめてみせた。
窮地を救われた男は、彼女に一生の忠誠を誓う。ベッドに並んで腰かけた彼に、女は話を持ち掛けた。
「あんた、あたしを何者だと思う? わからないでしょう。あたしは女泥棒。それから、人殺しもしたかもしれないわ」
しかし、彼女の衝撃的な告白を聞いても、男の決意は変わらなかった。女は続ける。
「あたし、四、五日前から、緑川夫人という名で、この部屋を借りているのよ。それはね、狙っていた鳥が同じホテルに滞在しているからなの」
「金持ちですか」
「ああ、金持ちも金持ちだけれど、この世の美しいものを集めてみたいのがあたしの念願なのよ。このホテルにいる鳥っていうのはね、それはそれは美しい大阪のいとはんなの」
ことごとに意外な黒天使の言葉に、男は、またしてもめんくらわなければならなかった。
「ところが少し面倒なのは、先方には明智小五郎っていう私立探偵がついていることです」
あたしはね、不意打ちなんて卑怯な真似はしたくないのよ。だから、いつだって、予告なしに泥棒をしたことはないわ。
「ああ、なんだか胸がドキドキするようだわ。明智小五郎なら相手にとって不足はない。あいつと一騎打ちの勝負をするのかと思うと、あたし愉快だわ」
彼女はわれとわが言葉にだんだん興奮しながら、青年の手を取って、彼女の感情のまにまに、それをギュッと握り締めたり、うち振るったりするのであった。
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