善意が追い詰めていく『流浪の月』凪良ゆう


 私は幼い頃、家が嫌いだった。お化けが連れていってくれればいいのに。暗くなってきた公園で、私はいつも、そんなことを考えていた。

 

 

 かつて、私の家には父と母、そして祖母がいた。祖母はその頃にはすでに身体が弱くて、なかなか満足に動くこともできなかった。

 

 

 看病をしなくてはならない祖母のことを父と母が疎んでいたのは、幼心になんとなく察していた。

 

 

 でも、私は祖母のことが大好きだった。夕食に『ナイショよ』といたずらっぽく笑って、アイスクリームをくれたからだ。

 

 

 それだけでなく、私は祖母が怒ったところを見たことがない。私が祖母を無理やり誘ってゲームをした時なんて、怒るどころか『上手いねえ』なんて褒めてくれた。

 

 

 今にして思い出しても、祖母は『変わった人』だった。世間で言われている常識みたいなものを、ちっとも気にしない人だったのだ。

 

 

 母はそんな祖母に小さい頃から振り回されてきたのだという。だから、母はその分、常識を重んじる『しっかり者』になった。

 

 

 父もそんな母に惹かれた『しっかり者』だ。「妻はちゃんとした人がいい」というのが、いい加減な兄を見て育った父の願いだったらしい。

 

 

 父と母の誤算は、私が祖母を慕うようになり、いつも祖母の部屋に入り浸るようになったことだろう。私が父と母ではなく、祖母に強く影響を受けたのはそのせいかもしれない。

 

 

 だから、祖母が亡くなった時、私はとても悲しんだ。泣いて、泣いて、泣き疲れて、倒れるように眠った。

 

 

 祖母からもらった凪良ゆうさんの『流浪の月』という作品を私はよく読んでいて、それが私が最後に持った祖母の形見になった。

 

 

 少女の話だ。少女の母は変わっていて、周りの人たちからは冷たい視線で見られていたけれど、父と、母と、少女の三人は周りの視線なんて気にせず幸せに暮らしていた。

 

 

 けれど、父と母がいなくなって、少女が叔母の家に引き取られてから、状況は変わってくる。

 

 

 叔母はいわゆる『常識人』で、少女が母と一緒に楽しんでいたことをことごとく否定した。

 

 

 叔母の家に居場所をなくしていった少女は、公園で遅くまで時間を潰すようになる。

 

 

 ある日、雨の中、座っていると、傘が差し出された。それは、いつも公園にいて、同級生たちから「ロリコン」と呼ばれている男だった。

 

 

「うちくる?」

 

 

 帰りたくないと告げると、男から提案される。少女は頷いて、男の家で過ごすことになった。

 

 

 男の家で彼女はようやく自由奔放に過ごすことができるようになり、男とともに楽しい時間を過ごす。しかし、それは長くは続かなかった。

 

 

 動物園に出かけた時、彼らは見つかってしまう。少女は家に連れ帰られ、男は捕まった。少女を誘拐した犯罪者として。

 

 

 そんな話だけれど、もちろん、幼い頃の私はぼんやりとしかわからなかった。ただ、夕食にアイスクリームを食べるところとか、『おばあちゃんみたいだね』とか言っていたくらい。

 

 

 父や母は私を『ちゃんとした子』に育てようとしていた。けれど、彼らの教える『常識』は、私にはどうにも受け入れがたいものでしかなかった。

 

 

 近所に変な目で見られるでしょ。みっともないからそんなことをしないで。どうしてそんなことをするの。

 

 

 夕食にこっそりアイスクリームを食べていたら、見つかってお仕置きをされた。ゲームは取り上げられて、そのまま返してもらえなかった。

 

 

 なによりショックを受けたのは、祖母からもらった『流浪の月』を取り上げられたことだ。「子どもにはまだ早いから」と言って。

 

 

 ねえ、どうして。どうして。近所がそんなに大事なの。誰にも迷惑かけてないのに。私がいくら訴えても、聞いてもらえることはなかった。

 

 

 祖母のいなくなった家は、次第に私にとって居心地が悪いものに変わっていった。祖母が笑ってくれたことを、父と母は否定していった。

 

 

 学校に通い始めると、もっと苦しくなった。私は『変わった子』扱いをされて、みんなから爪弾きにされていた。

 

 

 私は別にそれでも構わなかったのだけれど、母はそうじゃなかった。私に友だちがいないのを、恥ずかしいと思っていたらしい。

 

 

 母はママ友との仲よくすることに必死だった。あの子と仲良くしなさい。あの子と仲良くしたら駄目よ。そんなことばかり言われた。

 

 

 どうして私の友だちなのに、ママに決められなきゃいけないの。そう聞いてみたけれど、「ママはあなたのためを思って言っているのよ」と言われただけだった。

 

 

 ルール。常識。何の意味があるのかわからないそれを、理由がわからないまま守る。私は、祖母といた頃の楽しかった自分がいなくなっていくのを感じた。

 

 

 公園で、ブランコに座ってぼんやりと過ごす。門限は五時。それまで家に帰りたくないから、私はいつもひとりで何をするでもなく過ごした。

 

 

 私の味方は祖母だけだった。祖母だけが、私が私のままでいることを許してくれた。

 

 

 父も、母も、友だちも、先生も、常識に従う『彼らの思うイイ子』に私を変えていく。それは耐えがたい苦痛だった。

 

 

 誰もいない公園に私の影が伸びている。夕焼けが赤く染まり始めていた。今日も時間が来る。来てしまう。

 

 

 いっそのこと、誰か攫ってくれたらいいのに。私はため息を吐いて、ブランコから立ち上がった。

 

 

 父と母の教えを受けて、私は『ちゃんとした大人』になった。けれど、それは本当に『私』なのだろうか。

 

 

 今の私は父と母の人形だ。父と母がいなくなっても、その呪縛はすでに私の人生を縛っている。いっそのこと、祖母があの時、私を攫ってくれていたら、よかったのに。

 

 

社会からはみ出した二人

 

 お母さんは我慢をしない。だからママ友がひとりもいない。しかし、そのことをまったく気にしていない。

 

 

 ママ友のお付き合いより、楽しいことがたくさんあるそうだ。お父さんと私との暮らしを愛することに忙しく、つまんないことに割く時間なんてないと言う。

 

 

 灯里さんは感覚的なんだとお父さんは言うし、同じマンションのおばさんたちは、浮世離れしている、とこそこそ言っている。

 

 

 クラスでは、私は変わり者扱いされていた。仲間外れの理由は、変な家の子、だからだ。

 

 

 たまにアイスクリームが夕飯になることも、過激とされる映画を家族で見ることも、お父さんとお母さんがキスをすることも、すべてがクラスメイトには信じられないことだったようだ。

 

 

 お父さんとお母さんがやばい人でも、私は二人が大好きで、やばいことに何の不都合も感じなかった。我が世の春とは、あのことだった。あの幸せが永遠に続くと、私は信じていた。

 

 

 それが、なんでこんなことになっちゃったんだ。それはもう見果てぬ夢だ。最初にお父さんが消え、次にお母さんが消え、私は叔母さんの家に引き取られることになった。

 

 

 叔母さん宅の居心地が悪くなっていくにつれ、私は態度を改めざるを得なくなった。私の常識は叔母さんの家の非常識である。私は常識のある子どものふりをし始めた。

 

 

 様々な疑問に対する答えさえ示してもらえれば、私だってきっと納得できる。それがないまま、意味もわからず、私はルールに従い始めている。

 

 

 大きなヤマボウシが木陰を作るベンチに、若い男の人が座っている。昨日もいたし、その前の日もいた。私たちの間ではちょっとした有名人になっていて、ロリコンと呼ばれていた。

 

 

 だんだんと暗くなり、公園の時計を見ると、六時半を過ぎていた。帰りたくない。叔母さんの家では息が詰まる。

 

 

 私の我慢も空しく、毎日、少しずつ状況は悪くなっていった。向かいのベンチには今日も男の人がいる。

 

 

 大声で泣き喚きたい気持ちと闘っていると、俯いた視界に紺色の靴先が入ってきた。

 

 

「帰らないの?」

 

 

 甘くてひんやりしている。半透明の氷砂糖みたいな声だった。のろのろ見上げると、透明なビニール傘を差した男の人が立っていた。

 

 

「帰りたくないの」

 

 

 男の人はビニール傘を私の頭の上に移動させた。

 

 

「うちにくる?」

 

 

 その問いは、恵みの雨のように私の上に降ってきた。絶対ひとりになっちゃだめだよ。連れていかれるよ。洋子ちゃんたちの声が聞こえる。でも怖くない。

 

 

 それよりもずっと強い決意が私の中に根を下ろしている。私は、もう、あの家には帰りたくない。

 

 

「いく」

 

 

 私は立ち上がり、自らの意思を示した。

 

 

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