へんだけど、いとしいお笑いの世界『火花』又吉直樹


「俺、お笑い芸人になるわ」

休み時間、彼が突然そう言ってきたものだから、僕は思わず言葉を失くしてしまった。

彼という男は、かねてから大いにひねくれている性格をしていた。夢を語る正直を嘲笑い、馬鹿にするような男である。

それが突然、「俺はお笑い芸人になる!」なんて言い出したのだから、いかに僕が驚天動地だったか想像がつくだろう。頭でも打ったんか、と僕が思ったのも当然のことだった。

「なんや、もしかしてツッコミ待ちか? この前、ゆーちゅーばーになりたい言うてた中井の妹を無慈悲なひと言で泣かせたの、もう忘れたんか?」

「俺は本気や」

そう言った彼の口調は、明白な怒気を孕んでいた。自分の夢を冗談扱いする僕に、彼は腹を立てていたのだ。

校則違反の長い前髪の奥に見える眼差しは彼らしくもなく本気である。長らく友人をやっているが、いつも軽薄なコイツの真剣な目なんて初めて見た。

「……冗談じゃないのはわかった。けど、どういう風の吹き回しや。何があったん?」

僕がそう聞くと、彼は「よくぞ聞いてくれた!」とばかりに笑った。すでに面倒くさいが、今さら「すまん、ちょっとトイレ!」と言ったものなら友情に亀裂が入りそうだ。

「いやな、さっきの授業中あまりに退屈やったから借りてた本を読んでたんやけど」

「いや授業聞けや」

僕は常々疑問に思っていることがある。こんな男がどうしてテストではいい点が取れるのだろうか。机の下にドラえもんでも飼ってるんかな。

「で、本がどうしたん?」

「これなんやけど」

彼がそう言って見せてきたのは、一冊の本である。数学の教科書のページを割るようにして挟まっていた。そのタイトルを、僕は知っていた。

「ああ、知ってる。『花火』やったっけ?」

「『火花』や。二度と間違えんな。又吉大先生のデビュー作やぞ」

そうだ、『火花』だ。「お笑い芸人が書いた純文学」としてやたらとテレビで報道されて、話題になっていた。

「いやもう、めっちゃ最高やったわ」

彼は本を胸の前で抱きかかえるようにして身体をくねらせた。うわきもっ。そう思ったのは僕だけではないらしく、視界の隅で委員長がドン引きの表情で見ている。

『火花』は売れないお笑い芸人の徳永が、先輩の芸人、神谷と出会い、「神谷の伝記を書く」という条件で彼に弟子入りするところから始まる。

神谷は天性の奇才で、誰にもないような奇抜な発想と笑いにかける深い情熱、そして子どものような純真さを持った男だった。

反面、不器用で、世間に合わせるということを好まない。先輩芸人たちからは煙たがられていた。

「徳永と神谷の関係がな、もう堪らんねん。徳永は神谷を慕ってるんやけど、一辺倒じゃなくて、ちょっと複雑な感情を抱いているんや」

「へぇ」

「対して神谷も徳永をただ弟子としてかわいがってるんやなくてな、なんというか、互いに憧れているような、そんな感じがするんや」

「ほーん」

「ほんでな、神谷がまたカッコイイ男やねん。周りと同じことしとったらおもろない、ってな。自分の芯がしっかりあるんや」

「ははぁ」

「俺はな、この神谷みたいになりたくなってん。でな、そのためにお笑い目指したいんや。なあ、聞いてるか?」

「キイテルキイテル」

「棒読みやんけ。真面目に聞けや」

僕が適当な返事をしていたのがバレて、彼は睨みつけてきた。真面目に聞けって言われてもなぁ。

「読んでない本の話されても、こちとら乗り切れんで」

「ほな読んでみ。すぐ。今すぐや。次の休み時間までに読むんやぞ。ほら、ほら」

「次の授業は理科の実験なんやけど」

僕はため息を吐きつつも、彼から本を受け取った。まあ、これだけ彼が熱くなるのも珍しいから、付き合ってやろうとは思う。僕は彼ほど熱くなれないだろうけど。

彼が神谷だとするなら、僕は徳永だ。枠から出られない。僕は彼のようにはなれないだろう。社会というものを、捨てきる勇気がない。

だからこそ、僕は彼と友人をしている。性格が悪くて、自分勝手で。そんな彼に、僕は心のどこかで憧れているのかもしれない。

お笑いとは何か

大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。沿道の脇にある小さな空間の簡易な舞台の上で、僕たちは花火大会の会場を目指し歩いていく人たちに向けて漫才を披露していた。

僕と相方の山下は互いにマイクを頬張るかのように顔を近づけ唾を飛ばし合っていたが、肝心な客は立ち止まることなく花火の観覧場所へと流れていった。

熱海は山が海を囲み、自然との距離が近い地形である。そこに人間が生み出したものの中では傑出した壮大さと美しさを持つ花火である。

このような万事整った環境になぜ僕たちは呼ばれたのだろうかと、根源的な疑問が頭をもたげる。

反響する花火の音に自分の声を掻き消され、矮小な自分に落胆していたのだけど、僕が絶望するほど追い詰められなかったのは、自然や花火に圧倒的な敬意を抱いていたからだった。

この大いなるものに対していかに自分が無力であるかを思い知らされた夜に、長年の師匠を得たということにも意味があったように思う。

花火を夢中で見上げる人々の前で、ようやく僕たちの持ち時間である十五分が終了した。僕たちが舞台から降りた時、待機していた最後のコンビが気怠そうに外へ出てきた。

そして、僕とすれ違う瞬間に、「仇とったるわ」と憤怒の表情で呟いた。言葉の意味がすぐにはわからなかったのだけど、僕はその言葉を投げかけた人物から目が離せなくなった。

その人は痩せた腰を折り曲げてマイクに噛みつくような体勢となり、通行人を睨みつけながら「どうも、あほんだらです」と名乗った後、大衆に喧嘩を売るかのように怒鳴り出した。

終演後に主催者は顔を赤くして怒っていたけれど、その人の相方は主催者を睨みつけて威嚇していたし、その人は僕に子どものような笑顔を向けていた。その無防備な純真さを、僕はたしかに怖れていた。

その人は主催者の罵詈雑言から逃れ、僕のそばに笑顔で歩み寄ると、「店に行けへんか?」とわずかに引きつらせた顔で声をかけた。

風雨で傷んだ看板を掲げる店の片隅で安定の悪いテーブルを挟み、向かい合って腰を下ろした。

「なんでも好きなもん頼みや」

その人の優しい言葉を聞いた瞬間に安堵からか目頭が熱くなり、やはり僕はこの人に怯えていたのだなと気づいた。

「申し遅れたのですが、スパークスの徳永です」と改めて挨拶すると、その人は「あほんだらの神谷です」と名乗った。これが僕と神谷さんとの出会いだった。

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