空に浮かぶ月を見上げる。私は思わず、その青白い光に向かって手を伸ばした。そこに手が届くことなど、決してないのだと知りながら。
書かねばならない、と、その時感じた。それは、到底抗いがたい誘惑のような、いや、そんな生易しいものではなかった。
言いようの知れない何かが、私を内側から突き動かしているのだ。何が何でも書かねばならないという、衝動。
私は仕事を放り出してフラフラと彷徨い歩いた後、バスに乗って遠い地に来た。携帯を見ると、親や職場から何度も着信が届いている。
彼らに何を言われるかは、おおよそ想像がついた。しかし、もはや私は仕事をすることに意味を見出すことができなかったのだ。
書かねばならない。その堪えがたい衝動が、怪物のように私の胸の中でのたうち回っていた。それは、生きることよりも優先されるのだ。
誰にも理解はできないだろうが、私にとってはむしろ自然な行動だった。その怪物はずっと私の中で静かに頭を抑えられていただけなのだ。そのタガが外れた。それだけのことだ。
いつから、そいつはそこにいたか、わかりきっている。モームの『月と六ペンス』を読んでからのことだ。
画家のポール・ゴーギャンをモデルにしていると言われているその作品は、とある画家をその友人の視点から眺めているものだ。
ストリクランドは株式仲買人をしている平凡な男である。上流階級の妻を持ち、子どももいて、一見すれば幸せな生活を送っていた。
しかし、ある時、彼は突如として前触れもなく姿を消す。妻に残されたのは書き置きひとつだけであった。女と駆け落ちしたという噂が、各所で囁かれていた。
しかし、真実は違う。ストリクランドは絵が描きたいがために、今までの幸せな生活も金も全てを捨て去り、家を出たのだ。
彼にとって、長年連れ添った妻も、自分の血を継いだ子どもも、裕福な生活も、堅実に勤めてきた仕事も、何もかもが何の価値も持っていなかった。
彼の関心は、ただ絵を描くことにだけ向けられていた。たとえ絵が下手だと言われようとも、たとえ一生成功することがなかろうとも、彼には何の関係もなかった。
語り手は、そんな彼のことを「悪魔にとりつかれたよう」だと称した。しかし、私にはストリクランドの心情がわかるような気がする。
自分の中にある、衝動。それをどうにか、吐き出さなければならない。ある一点を超えると、世の中のありとあらゆるものが無意味であるように思えてくる。
世間常識と照らしてみれば、ストリクランドのように考える人間は異常なのだろう。世間では仕事や愛が何より優先される。
たとえ命が尽きようとも、書かねばならぬ。描かねばならぬ。そんな仄暗い情熱を、誰かに理解してもらおうとなんて思わない。
芸術家とて、生きるために絵を描く。命の下に芸術がある。しかし、私は、真の芸術家とは、ストリクランドのような人間だと思うのだ。
人間としてはこの上なく破綻していて、壊れている。世間は絵が優れているわけではないストリクランドのことを、生前のうちは芸術家として認めることはなかった。
彼に憧れを抱く私を、世間はおかしいと言うだろうか。私は彼のようにはなれない。だが、最期の瞬間まで無念に苛まれ、路傍の石のように野垂れ死ぬ結末を、私は描きたいとすら、願うのだ。
理想と現実、日常と狂気
この小説はポール・ゴーギャンの生涯に暗示をうけたものである。
ある時期に数年ロンドンに住んでいた私は、仕事しながらも収入は極めて少なかったが、その生活を楽しんではいた。
私の処女戯曲は「演劇協会」によって上演され、大きな名誉を持った。ちょうど三十歳だった。重大な時期にさしかかったと思われ、私は、何か断固たる一歩を踏み出すべき呼びかけを内部に感じた。
私はいたたまれなくなった。自分の平穏で狂いのない生活に腹立たしくなった。
私はすり減らしつつある快適な人たちや単調な享楽から、絶縁して動き出そうと決意した。
ヴィクトリア駅近くの、一時はひどく誇りに思っていた小さなフラットを出、家具を売り払い、パリへ向かった。
ベルフォール獅子像に近い、アパートメントの五階の、ひろびろと墓地が見渡せる三間を借りた。
私がセザンヌとファン・ゴッホとゴーギャンとの存在を知ったのは、その頃だった。
このうち、セザンヌがはるかに優れているが、ゴーギャンは、文学者を惹きつける特異性を持っている。
彼と知り、ポン・タヴァンで制作生活をともにしたという連中と、私はつき合った。彼について多くのことを聞いた。私は構想を心の中に抱き続けた。十年以上も抱き続けた。
ついに、実に長く心の中であたためていた小説を書く機が熟したことを知った。それは、1918年の夏、大戦初期にかかった結核の回復期をサリの丘陵地でおくりつつあった時期に書かれたのである。
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