この世は悪人ばかりだ。他人を傷つけ、踏みつぶすことをなんとも思っていなかったり、むしろそのことを楽しんでいたり。神様なんて、本当にいるんじゃないだろうか。そんなことを、真剣に疑った頃もあった。
私の家は宗教系で、その影響か、私は昔から道理の通っていないことが嫌いだった。正義感が強い、というのとは違うと思う。むしろ、正義や悪は、勝手に思えてそれもまた嫌いだった。
そんな性格が「優しい」と称されることは多かったけれど、私自身は、何ら得したことはない。何せ、ニュースでは毎日のように悲惨な事件が報道されている。そのせいで、ずっとモヤモヤしていた。
どうして、こんなことが平然とまかり通っているのだろう。もしも神様がいるというのなら、どうしてこんなことが許されているのだろう。
浮気して女性を裏切って平然としている男。法律に背かないためにタイムカードを切った後も働かせる企業。犯罪を犯しても責任を取らない政治家や大企業の社長。
法律の問題じゃない。人としてのルール。それを破っているかどうか。嘘を吐き、人を騙し、裏切り、意図的に傷付ける。そしてそのことに罪悪の意識すらも持っていない。
そんな彼らが、ただ「法律に背いていない」ということだけで裁かれないこの世界は、果たして正しいと言えるのだろうか。そんな苛立ちが、ずっと胸中で煮え立っていた。
子どもの頃には、そんな正義感を抱えている人も多いのかもしれない。そんな彼らも、大人になっていくにしたがって、社会の清濁を併せ呑むようになる。それを、「大人になった」という言葉で虚飾する光景の、なんと歪なものだろう。
私は大人と呼べる年齢になった今でも、その割り切りができなかった。道徳の授業で習った内容を、それを教えている大人たち自身ができていないという事実。そこに、いつも絶望を感じていた。
神様。ああ、神様。何度祈ったことだろう。どうしてあなたはこの世界を放っておくのか。どうしてあなたは歪んだ行いを平然と見過ごし、彼らに罰を与えなさらないのか。
その答えをくれたのは、意外なものだった。それは讃美歌でもないし、悟りでもない。伊坂幸太郎先生の、『首折り男のための協奏曲』という本だった。
背後から近づき、首を折る。そんな「首折り男」の周りや、もしくはまったく関係のないものが収録された短編集だ。
私は伊坂先生の作品は勧善懲悪じみたところがあるから好んでいて、よく読んでいたのだけれど、この短編集のとある一節を読んだ時は、思わずはっとさせられた。
その短編は、クワガタにまつわるものだ。多くの人は他の短編と比べて印象の弱いものかもしれないけれど、私はこの作品が一番好きだった。クワガタを飼育している男の話と、いじめを受けている子どもの視点が行き来する、という構成になっている。
「神様はきっと、いつも見ているわけじゃない。ただ、仕事の合間とかにたまに思い出して、天罰を与えたり助けたりするんだ」
だいたい、そんな感じの一節だった。当時、信仰について悩んでいた私にとって、その言葉は軽快さとは裏腹にずしりと私の心に刻まれたのだ。
そうか。神様だって、私たちと同じかもしれない。飼育している動物を、誰もずっと見ている人なんていない。ただ、仕事の合間や、ふとした瞬間に、ちょっと視線を送るだけ。
その時に困っているようならそっと手を貸すし、イケナイことをしているようなら罰を下すだろう。きっと、神様だってそんなものなのだ。
そう思った途端、張り詰めていた肩がふっと力が抜けたように思った。そうだ。助けてくれないから神はいない、なんて、迷わなくてもいいんだ。
神様だって、ずっとこの世界を見守っているわけじゃない。だから、悪人が見逃されているのも、善行が評価されないのも、彼がよそ見をしているだけなのだろう。
なんでも真面目に考えすぎるからよくない。ちょっとは肩の力でも抜いて気楽に考えてみろよ。そんな声が、どこかから聞こえたような気がした。
首折り男は誰?
「ねえ、あなた、これ、隣のお兄さんじゃないかしら」リビングテーブルに座っている若林絵美がテレビを眺めながら夫の順一に言った。
「隣の?」
「そう。隣のアパートの一階に住んでいる、体の大きな」
テレビでは、過去の事件を扱う番組が放送されていた。今は、都内で発生した、バス停留所での殺人事件について、分析めいたものをやっていた。
猛暑で誰も彼もが朦朧としていた数か月前、田端駅へ向かうバスの停留所で、ある男が首の骨を折られ、亡くなっているのが発見された事件だ。
被害者は一瞬のうちに、背後から首を捻られ、殺害されたのだという。過去にも類似の事件があったことから、当時から話題騒然だったが、いまだに犯人は捕まっていない。
テレビでは、「目撃談」をもとに。犯人の人物像が表示されていた。「身長百八十から百八十五センチメートル」「髪は短く、黒い」「黒い眼鏡をかけている」「白いTシャツにジーンズ姿」と箇条書きで、だ。
「ほら、あなた、これ、隣のアパートのお兄さんでしょ」妻は言った。「よく見てくださいよ、ほら、この条件」と妻は力説する。
並べられた項目を一つずつ吟味していく。言われてみれば、隣のアパートに住む、数回すれ違った程度ではあるが、その男の外見に当てはまる。
テレビではさらに、目撃者情報をまとめた似顔絵と全身の図が映された。あ、隣の男だ! と声を上げそうになった。それほど似ている絵だった。
「ね、似てるでしょ」「確かに、似てる」
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