大きな窓を大粒の雨が勢いよく叩いている。薄暗い夜陰のベールと雨に覆われている外には、かすかに車のタイヤが見えた。
先生は珈琲の入ったカップを片手に、外の様子を眺めている。いや、外ではなく、彼の瞳はどこか遠くを見つめているようだった。
「人生とは理不尽なものだ。ある日突然、理解できない状況に放り込まれることだってあり得る」
先生は窓の外から視線を外して、私の周りをゆっくりと歩く。古びた床板がぎしぎしと鳴った。
「人の命は君が思っている以上に軽い。そう、今カップから立ちのぼる珈琲の湯気のように、ふっと息を吹きかければ」
彼が言葉通りに息を吹きかけると、まっすぐに立ちのぼっていた湯気はゆうらりと歪む。
「簡単に傾く」
先生はそう言ってにやりと笑った。この先生のことは嫌いではないが、こういう回りくどい言い回しは苦手だった。
「君たちは明日も自分がいつも通りの一日を送ることができるとなぜか確信している。そして、明日は何をしようとか、明日の朝は何を食べようとかを考えている」
それが本当に来るという確証はないというのに、ね。彼はカップを口元で傾けて珈琲を飲み干した。
「ほらね、こんなふうに。湯気は自分が冷めてしまう前に、自分が次の瞬間、消えてしまうことをわかっていたのだろうか」
私は首を横に振った。
「そう、君たちはいつだって自分の命が冷めて消えていくものだと信じている。その珈琲を誰かが飲み干してしまうなんてことを、誰も考えもしない」
自分が理不尽な事故や、事件で終わってしまう可能性なんて、そんなに低くはないというのに。
「君は、こうなることを考えていたかね?」
私は首をまた横に振った。口で否定しないのは、今、私の口には布が詰められていて声を出すことが出来ないからだ。
「ああ、思わなかったろうね。そうだろうとも。私と君は上手くやっていた。そうだろう」
君は私を信頼してくれていた。私たちは良い友人だったろう。ああ、その通りだとも。先生はうんうんと頷いた。
「だが、信頼は時として裏切られるものだ。まさしくビックリマークというわけだ」
はははは、と彼は乾いた笑いを零す。私は笑わなかった。
「さて、それで。君は今、私の手によって椅子に縛られて動けないでいるわけなのだが、どんなことを考えているのだろうか」
理解できないという恐怖
先生は私が通う大学の教授だった。物腰が柔らかい性格から生徒から慕われていて、特に用事がなくても彼の研究室を訪れる人は多い。
私もその中のひとりだった。先生と話している時間はどこか時がゆっくりと流れているようにも思えて、居心地が良かった。
講義の疲れを先生と歓談でもしながら菓子と珈琲で口を潤すのが、私の楽しみのひとつだった。
私が最後の記憶を辿ると、いつものように先生の研究室で珈琲を飲んでいたのを思い出した。
しかし、それから急激に襲ってきた眠気に抗えず、私はそのまま机に伏してしまったのだった。
今にして思えば、珈琲を飲んだのにあの眠気は異常だ。おそらく、何かの薬が入れられていたのだろう。
目が覚めた時には、私は椅子に後ろ手に回されて縛られていた。手首には荒縄がしっかりと結ばれていて、力ずくでは外れそうにない。
足も椅子の足に縛りつけられて、口には布が噛まされていた。隙間から垂れていく唾液が気持ち悪いが、拭うことすらできない。
いくら考えてみても、先生がこんなことをする理由がわからなかった。研究室での先生もいつもと変わらなかったのだ。
しかし、今、こうしている時も先生は普段と同じだ。それがむしろ、私には何よりも怖ろしく思えた。彼はいつもと同じような笑顔で、私を縛っているのだ。
「私が何のためにこんなことをしているのか」
先生が棚から珈琲をもう一杯、入れようとしている。こぽこぽと淹れられる黒い液体から湯気が立ちのぼった。
「君はその理由を聞きたいと考えているね」
私はこくこくと頷いた。しかし、先生はゆったりと珈琲の香りを楽しむように目をつぶると、一口だけカップに口づけた。
「逆に問おうか。なぜ理由がなくてはしたらいけないのか」
先生の言っていることが理解できずに私は呆然とした。
「今の世の中、誰しもが何をするにしてもまず理由を求める。しかし、考えてみたまえ。理由なんてのは行動する過程において必要ではないのだよ」
では、先生は理由もなくこんなことをしているというのか。生徒に薬を盛ってどこかに閉じ込めて、椅子に縛りつけるなんて行為を。
「それでも、君が理由を求めるならば、こういうのはどうだろう? これは実践を兼ねた私の特別講義だ、と」
残念ながら単位は出ないがね。これで満足だろうか。先生は顔に笑みを浮かべたまま私に問いかけた。
「では、そろそろ講義も終わりにしようか。君も早く寝ないと明日の講義に間に合わないよ」
先生はそう言って私の方へ近づいてきた。彼の笑顔がどこまでも不気味で、私は暴れようとする。しかし、椅子がガタガタと揺れるだけで、戒めは外れない。
「言ったろう。世の中には理不尽なものなんていくらでもあるのだよ」
彼のその言葉を最後に、私の意識は暗転へと呑まれていった。
不条理が襲うホラーの短編集
朝。秋から冬に変わりつつある空気の中で、ほんのりと息が白く染まる。太陽の澄んだ光は、夏と違ってうるさくない。
学校に向かって歩く僕の足に、何かが当たった。携帯電話だ。僕は足を止め、それを見る。朝の静かな住宅街、人通りはない。歩み寄り、携帯電話を拾い上げる。
僕はその二つ折りの携帯電話を開く。カチ、と音がする。電源、入ってるじゃん。
僕は、大変なものを拾ってしまったことに気付いた。これはただの落としものじゃないぞ。数ある落し物の中でも、携帯電話はもっとも重大な落とし物ではないだろうか。
僕はワクワクする。心臓の鼓動が早くなる。この携帯電話を見ることで、その人を盗撮できる。僕は持ち主に近づくことなく、この携帯電話を通して何もかも知ることができる。
これは好奇心だろうか? もっと次元の低い欲望だろうか? 僕は他人の生活を覗いてみたい。そうだよ、こんな機会はめったにない。
僕はその携帯電話を、コートのポケットにしまった。財宝の詰まった宝箱を手に入れたような満足感。思わず笑みがこぼれる。
授業中の学校は、なんとも不思議な空間だ。五限目の始まった校舎のてっぺんで、僕と藤島はその静けさを楽しんでいた。
僕は朝拾った、白い携帯電話を取り出して見せた。藤島も大いに好奇心をそそられたようだ。僕たちは屋上の端っこで、二人で携帯電話をいじり始めた。
まずはプロフィールを見てみることにする。「0」キーを押すと、持ち主の氏名、電話番号、メールアドレスといったプロフィールが表示される。
のうみそをこえたそんざい
思わず眉間にしわが寄る。藤島も怪訝そうな顔をしている。『のうみそをこえたそんざい』が持ち主の氏名だ。
僕はメニューからデータフォルダを開く。そこには4件しか入っておらず、それはすべて画像データのようだった。
僕と藤島は息を呑んだ。そこにあったのは赤い水たまりに倒れた若い女性だ。見ただけでも、彼女の命がないことがわかる。
それは、僕と藤島のクラスメイト、田中ミサトの変わり果てた姿だった。
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