その食堂で食べると願いが叶う『食堂かたつむり』小川糸


 出来上がった料理を、フライパンから皿の上に盛り付けていく。完成したその料理を見て、私はそっと微笑んだ。

 

 

 私が料理人になろうと決意したのは、中学生の頃だったと思う。小川糸先生の『食堂かたつむり』という作品を読んだことがきっかけだった。

 

 

 恋人にすべてを奪われたショックで言葉をなくしてしまった倫子は、故郷に帰り、自分が得意な料理を活かして、食堂を営むことにした。

 

 

 彼女の料理は、食べた人を幸せにした。そして、倫子の『食堂かたつむり』は、”願いが叶う”と話題になっていく。

 

 

 私は、その世界観に思わず惚れ惚れした。どこか透明感のある、透き通った文章。忙しい都会の喧騒とはまったく異なる時間の速度。

 

 

 物語は決して軽くはない。倫子は何もかもを失い、言葉すらも話せなくなってしまう。母親との関係は上手くいっていない。

 

 

 けれど、読んでいて憂鬱な気持ちにはならなかった。それは、まさしくその本自体が作中に登場する『食堂かたつむり』そのもののような雰囲気を醸しているからかもしれない。

 

 

 倫子が作る料理の香りが、読んでいる私の鼻孔を擽っているような気がした。思わず、ごくりと生唾を嚥下する。

 

 

 初めて読み終わった時、私は我慢することができず、初めて料理をした。母親にキッチンを借りて。

 

 

 結果は失敗。黒焦げになった目玉焼きを、涙目で食べたのを覚えている。苦い思い出だった。文字通り。

 

 

 そんな私が本当に夢を叶えて料理人になれたのは、自分でも驚きである。あれから何度も料理を失敗してきたけれど、おかげで多くのことを学ぶことができた。

 

 

 お店は、上手くいっているとは言いがたい。ご時世というのもあるけれど、いや、やっぱりそれは言い訳でしかないかもしれない。

 

 

 私はまだまだ未熟だ。けれど、お店を気に入って何度も足を運んでくれるお客さんもいる。お店としてはダメダメかもしれないけれど、私はそれだけで嬉しかった。

 

 

 私がなりたかったのは、倫子のような料理人だ。

 

 

 食べることで幸せになれる。私たちが普段から何気なく食べている食事というのは、実はとても尊いことなのではないかと思う。

 

 

 食べることは私たちにいろいろなものを与えてくれる。それは、この世界にあるたくさんの命が与えてくれるものだ。

 

 

 世の中には食べることすら精一杯の人たちだっている。私たちがこうして「おいしい」を求めることができるのも、奇跡みたいなものだ。

 

 

 倫子みたいに、願いを叶える料理を作ることはできない。でも、食べた人を幸せにできるような料理なら、私でも作れる。

 

 

 人を幸せにする。それが、私が倫子から学んだ料理人の姿だ。急がなくてもいい。かたつむりくらいの早さでも、私は少しでも多くの人を、幸せにしてあげたいのだ。

 

 

願いが叶う食堂

 

 トルコ料理店でのアルバイトを終えて家に戻ると、部屋の中が空っぽになっていた。テレビも洗濯機も冷蔵庫も、蛍光灯もカーテンも玄関マットも、あらゆるものが消えている。

 

 

 一瞬、部屋を間違えたのかと思った。けれどいくら確認しても、そこは、インド人の恋人と同棲していた愛の巣に間違いない。

 

 

 部屋には、恋人と共に暮らした三年分の思い出と貴重な財産が、ぎゅっと濃密に詰まっていた。

 

 

 大きな家財道具は少なくても、台所道具だけは豊富だった。毎月アルバイトで稼いだお金から、長く使えるものを揃えていたのだ。やっと手に馴染んできたところだったのに。

 

 

 とその時、私はハッとして、玄関までひた走り、靴下のまま外に飛び出した。

 

 

 恋人が唯一食べられる日本の発酵食品が、私の作るぬか漬けだった。祖母の残してくれたぬか漬けでなければ、その味が出ない。ぬか床の入っている壺は、玄関のドアの脇にある狭いスペースの中にしまっていた。

 

 

 ぬか床は、祖母の大切な形見なのだ。お願いします。どうかぬか床だけでも残っていますように。

 

 

 念じるようにして扉を開けると、闇の中で見慣れた壺がひっそりと私のことを待っていた。

 

 

 無事でよかった。私は思わず両手で壺を抱きかかえ、胸の中に抱擁した。私にはもう、このぬか床しか、寄る辺がない。

 

 

 私はそのままマンションを後にして、大家さん宅に立ち寄り、部屋の鍵を返却した。外はすっかり暗くなっている。腕時計も携帯電話も持っていないので、時間すらわからない。

 

 

 私は電車数駅分をとぼとぼと歩いて大型バスターミナルへ向かい、残された所持金をほとんどはたいて、深夜高速バスのチケットを買った。

 

 

 十五歳の春に背中を向けて以来、一度も足を踏み入れることのなかった私のふるさとへと向かうバス。

 

 

 深夜高速バスは、私とぬか床とバスケットを乗せてすぐに発車した。都会の明かりが、窓の向こうを流れていく。

 

 

 さようなら。私は心の中で手を振った。目を閉じると、これまでの出来事が、木枯らしに舞う枯葉のように脳裏を駆け巡った。

 

 

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