一定のリズムで刻まれる蹄の音。照りつける太陽に項を焼かれ、私は額から滑り落ちる汗を手綱を握った袖で拭った。
馬の呼吸も乱れてきていた。私を乗せたまま歩き続けて、もう随分な時間になる。若くて力強い旅の相棒ではあるが、そろそろ休ませねばなるまい。砂山の向こうに黒い影を見たのは、そんな時だった。
「へえ、じゃあ旦那はそんな遠いところから旅をしてきたんで?」
気さくに話しかけてくる赤ら顔の商人に、その通りだと頷くと、へぇぇと彼は感心したような息を零した。
休み時に善良なキャラバンと出会ったのは幸運と呼べるだろう。見えた影が盗賊のものであったならどうしようかと思っていたところだ。
私はキャラバンの商人のひとりと仲良くなった。彼の故郷が、私がつい先日まで滞在していた都市だったからだ。
「はぁ、盗賊ですと。それはまた物騒な」
「私の友人から聞いた情報だ。西から来た商人から伝え聞いたらしい。宿の店主をしているから、疑わしいなら聞いてみるといい」
「いえいえ、信じていますとも。これでもあっしは人を見る目はありますのでね。旦那が正直者だァなんてことは一目瞭然でさあ」
調子のいい男だ。しかし、笑みを浮かべている赤ら顔からは内心がうかがい知れない。商人という生き物は自分がどう見えるか把握しており、剽軽な道化めいた態度も演技だろう。
隠しようがないでっぷりと太った腹が彼の商人としての優秀さを物語っている。そして、そういった人物こそ、砂漠で旅人からもたらされる情報の価値を知っていた。
情報の対価はすでにもらっている。馬の食料と水、そして休息の安全。私ひとりでは得難いものである。
「しかし、どうしてそんな遠い距離を旅をしてるんで?」
私は思わず苦笑した。今まで立ち寄った都市で出会った人々にも、同じことを聞かれている。だからこそ、私の答えも決まっていた。
「旅をするのに、理由はいるかね?」
「へぇ?」
私が旅を始めたのは『旅のラゴス』という小説を読んだことがきっかけだった。
ラゴスという青年が先祖の残したとされている書物を読むために、長い旅をしていくという話だ。
ラゴスは善良な青年であるが、無論、順風満帆な旅ではない。盗賊に襲われ、命の危険を感じることもある。
足枷に繋がれた生活を何年も続けたり、かと思えば、王として君臨することもあった。
しかし、どれだけの富や名声を得ようとも、ラゴスが旅をやめることはない。そして、とうとう、彼は一枚の絵姿を頼りに、命を奪う極寒の中に消えていくのだ。
私は彼の生き方に憧れを抱いた。社会に惑わされることなく、彼は引き留めようとする声を退け、自らの生き方を最後まで貫く。
自ら名声も地位も財も捨てて、命を失うかもしれない旅に身を投じる彼を、ともすれば、人は非難するかもしれない。
しかし、それでも彼は生涯旅をし続けるのだ。俺の生き方は俺自身が決める、とでも言うように。その生き様は羅針盤の針として、今もなお、私の胸に残っている。
私の故郷は人と人とのつながりを大切にし、和を乱さないことを第一とする国だった。
人は自分のためではなく社会のために働き、子どもは親の示した生き方を歩むのが幸せだとされていた。
しかし、私はそれがたまらなく嫌だった。約束された富と安定した生活よりも、自由が欲しかったのだ。だからこそ、私はこうして旅人になった。ラゴスと同じ旅人に。
「旅をするのに理由はいらない。旅を終わらせないために、旅をしているのだよ」
富、地位、名誉、家族、愛、人とのつながり、安定した生活。何を大切にするかは人によって違うだろう。
生きることそのものがひとつの旅である。私たちは生まれたその瞬間、死出の旅路に向かって歩いている。
その道中で何を得て、何を捨て、何を大切にするか。背負う背嚢の中に何を入れようか。私たちはそれを旅の中で選び取らなければならないのだ。
だからこそ、旅は孤独でなければならない。どんな選択をしようとも、背負う荷物を他人に任せてはいけないのだ。
商人は、私の答えを聞くと、笑みを浮かべた。彼もまた、「金」という、目的を持ったひとりの旅人なのである。
「あなたの旅に幸多からんことを」
「あなたも」
私たちは乾杯した。我々の旅路が交わるのは、この瞬間だけであろう。だが、それすらもまた、旅の醍醐味である。
長い旅の結末
この世界における一番北方の都市はエポチスという木材工業の町であった。わたしはこの町に一か月ほど滞在した。
エポチス以北には林業に従事する小さな村が点在するのみであった。雪に覆われた谷間の小さな村の、親切な樵夫の一家にとどめられ、わたしは冬を越した。
春がやってきた。わたしはスカシウマに乗ってさらに北へと出発した。これほど北へやってくると、もう夏は追いかけてこない。
秋のはじめ、わたしは最果ての村へ辿り着いた。村人によれば、そこから先、もう村はないということであった。
高検樹の森が長々と続き、森を出はずれると高い山の聳える雪の国、氷の国であり、行った者はいないというのだ。
「森に棲む者もいないのかね」
「森番が、森の入り口の番小屋にいます」
村から先は凍土の続く平野であった。五日目、遠くの白い山脈が急速に近づき、麓の黒々とした森が迫ってきた。
番小屋は丸木と土で造られていた。午後遅く、わたしはその小屋の戸を叩いた。森番というのは、人懐っこそうな老人であった。
「わたしはラゴスという。別段、森を見回りに来たというわけではないのだよ」
「では、何をしに来なさったのかね」
嘘はすぐ見抜かれるだろう、と、わたしは思った。それに、ここまで来てしまえば本当のことを話したところで、何の差支えもなかった。
「昔、このあたりまでやってきた絵描きがいてね、その絵に魅せられて、ここまで旅をしてきたというわけさ」
「その絵とは、どんな絵ですかね」
「氷の女王の絵だよ。伝説のね」
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