美貌の女性の罪と悲劇『アンナ・カレーニナ』トルストイ


妻が別の男と家を出たのは、つい数時間前のことである。妻の不倫を知った俺が追い出したのだ。空っぽになった部屋を、俺はぼんやりと眺めていた。

 

妻が男といる光景を目の当たりにした瞬間の、燃え上がるような激しい怒りも今は消えて、後に残るのは消し炭のような虚無感だけだった。

 

どうして、こんなことに。怒りのままに妻と男を追い出したままの荒れた部屋を、俺はのろのろと片づけ始める。手近にあったものをありったけ、投げたり壊したりしたのだ。

 

一冊の本を拾った時に、ふと、そのタイトルが目に入る。トルストイの『アンナ・カレーニナ』。こんな本を持っていただろうか。

 

いや、思い出した。文学少女だったという妻が、学生の頃に読んだお気に入りの本だったはずだ。この家に移り住む時、大切そうに胸に抱きしめていたことを思い出す。

 

俺は普段、本なんて読まない。だけど、その時は、何か別の衝動が俺を動かしていたように思える。虚しさを誤魔化すつもりだったのか、それはわからないが、俺はその本を読み始めた。

 

最初はただページをめくり、文字を追いかけるだけだったのが、次第に夢中になり、一心不乱に読みこんでいく。俺がそこまで物語に引きこまれるのは、初めてのことだった。

 

『アンナ・カレーニナ』は不倫の物語だ。カレーニンの妻である美貌の女性アンナは、ブロンスキーという男性と惹かれ合い、恋に落ちる。

 

しかし、キリスト教において不倫は罪だ。罪を犯したアンナの結末は、決して幸せなものではない。彼女は次第にブロンスキーとすれ違い始め、他の女性と付き合っているのではないかという疑惑に苛まれた挙句、走る列車に身を投げてしまう。

 

その凄惨な最期には、思わず言葉を失ってしまった。不倫をしたのだから当然の報いだという人もいるかもしれない。だが、俺はそこまでのことを思うことができなかった。

 

否が応にも、物語の中のアンナと、出て行った妻が重なる。不倫されたことは哀しかったし、怒りもした。だが、できることならば、別れた道の先で、彼女に幸せがあってほしいものだと思うのだ。彼女の夫だったものとして。

 

今の世に神はいない。不倫は人と人との業である。だったら、それを裁くのも、許すのも、また人の役目になったのだ。

 

本を閉じて、ふうと息を吐く。不倫をした妻を許す気はない。だが、不倫をされるほど彼女のことを引き留められなかった俺にも責任があるのだろう。だからどうか、せめて幸せにと願う。彼女を憎みながらも、今でも愛していることに変わりはないのだから。

 

 

不倫をした女の末路

 

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。オブロンスキー家ではなにもかもがめちゃくちゃだった。

 

妻は、夫が前にうちにいた家庭教師のフランス女と関係があったことに気付いて、もはやこれ以上、一つ家に同居はできない、と夫に向かって言い切った。

 

諍いのあと三日目にステパン・オブロンスキーは、いつもの時間、つまり朝の八時に、妻の寝室ではなく、自分の書斎の山羊皮のソファの上で眼をさました。

 

そして九年越しの古い習慣で起き上がろうともせずに、寝室のガウンのかかっている方へ片手を伸ばした。そこでふと彼は自分がなぜ妻の寝室でなく、書斎などで寝ているのかを思い出した。

 

全てのいきさつを思い起こしながら、彼は呻き声を挙げた。すると彼の想像には妻との諍いの些細なことまでが残らず浮かびあがってきて、八方ふさがりの自分の立場が思い出された。何より弱ったのは、罪が自分にあることだった。

 

《うむ! 彼女は許すまい。なにより始末の悪いのは、一切の罪は俺にありながら、俺が悪いと思っていないことだ。ここにすべての悲劇があるわけだ》

 

一番不愉快だったのはあの最初の瞬間だった。それは彼が陽気に、満足して、妻へのみやげに大きな梨を手にして劇場から戻ってくると、妻の姿は客間にはなく、やっと寝室で見つけはしたものの、その手には一切を曝露した手紙を握っていた、あの瞬間である。

 

――なんですの、これは?――と手紙をさしながら、彼女はたずねた。そしてこれを思い出した際に、よくあることだが、ステパンを苦しめたのは、その事件そのものよりは、むしろ妻のこの言葉に対する自分の返答ぶりだった。

 

この瞬間、彼には、あまりにも恥ずかしい何かの行いをいきなり暴かれた場合に人々に起こるようなことが起こった。まったく心にもなく、だしぬけに、いつもくせになっている人の善い、従って間の抜けた微笑をちらっとほころばせてしまったのである。

 

さすがに彼もこの愚かしい微笑だけは自分にも我慢がならなかった。この微笑を見てとるや、ドリーはまるで身体に痛みでも受けたようにぴくっとして、彼女独特の烈しさで噛みつくような言葉の雨をあびせかけると、部屋から走り出てしまった。

 

《みんなあの馬鹿げた微笑がいけないのだ》とステパンは考えた。《だが、さて、どうしたものかな? どうしたらいいのかな?》――彼はがっかりしてそう呟いたが、答えは見つからなかった。

 

 

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