ああ、なんてことだ。私は頭を抱えた。このままでは歴史が変わってしまう。その時、果たして私の元いた時代はどうなるのだろうか。
『ねじの回転』という作品がある。恩田陸先生の作品だ。始まりは、男たちが雪の中を歩いているところから始まる。
遥か未来、人類は時間を逆行する方法を編み出した。それにより、人類は偉大な事業とされる『聖なる暗殺』を施行する。
実行者たちは見事に成功を収め、英雄のごとく讃えられたが、やがて、HIDSと呼ばれる奇病が人々を脅かし始めた。
その原因は歴史を変えたことによるものだと考えた彼らは変わってしまった歴史を元に戻す作業を強いられることになる。
ジョン率いるプロジェクトグループは、日本の二・二六事件を担当していた。彼らは当事者である安藤、栗原、石原の三人に事情を説明したうえで協力を依頼した。
かくして、プロジェクトは進行する。しかし、歴史の修正を担う機械『シンデレラの靴』が、怪しげな挙動をし始める。
学生の頃、私がほんの気まぐれで手に取ったその本は、以来、長く私の愛読書、あるいはバイブルとしてそばにいてくれた。
タイムマシンを開発する、となると、誰もが『ドラえもん』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い浮かべていたが、私の憧れは『ねじの回転』であった。
だから、実際に完成したタイムマシンも乗り物ではない。一見すると小型の時計にしか見えないだろう。『ドラえもん』が大好きな同僚は喜びながらも、ちょっと不服そうだった。
とはいえ、結果は成功だった。使用した私と数人の科学者は時間を逆行した。現代では絶滅した植物を目の前にして、私たちは手を取り喜びを共有したものだ。
ああ、あの頃が遠い昔のようだ。いや、昔ではある。時代の上では、喜んだあの時と現代とでは、100年以上もの差があるのだから。
元の時代に帰還することも問題なく終了した。そして、実験は個人使用の段階へと差し掛かる。
事件はその時起こった。しかし、私の記憶はいまいち判然としない。気が付けば、人が倒れている状態だったのだ。
時間跳躍の原則として、パラドックスを起こさないように気をつけることは、誰もが意識していた大前提であった。
なにせ、ほんのちょっと変えただけで、私たちの時代すらも変貌してしまう可能性があるのだ。私たちは慎重すぎるほど慎重に事を進めてきたはずだった。
それが、なんということだろう。私の足もとには人が倒れている。息はしていない。
先祖の時代に逆行する。それが、今回の私の実験内容だった。
私の家系に言い伝えられているその時代の先祖は、まさしく「天才」であったという。突飛な発想と柔軟性を身につけており、後世に優秀な科学者を輩出した。
ああ、どうしたものか。何より怖ろしいのは、先祖がいなくなったことで、この私自身がどうなるか、ということだ。
今のところ、問題はなさそうだ。しかし、いつ何が起こってもおかしくはない。元の時代に戻った瞬間に、私は消えてなくなるのかもしれないのだ。
怖かった。いっそのこと、現実ごと隠してしまおう。そう思った私は、亡くなってしまった先祖の身体を持ち上げる。
「大丈夫ですか、先生。すごい音がしましたけど」
扉のノックが聞こえる。まずい。この状況を見られるわけにはいかない。私は慌てて掃除道具入れに先祖の身体を突っ込む。
「先生、先生! 返事をしてください!」
「問題ない! ころんだだけだ!」
慌てて返事をする。すぐにしまったと青ざめた。別人だと気づかれたらどうすればいいのか。
「ああ、そうでしたか。気をつけて下さいよ」
しかし、ノックの音の主は納得したらしく去っていった。どうやら、私を彼だと勘違いしてくれたらしい。
ほう、と安堵の息を漏らして、改めて処理をするために掃除道具入れを開けた。しかし、目の前の光景を見て私は愕然とする。
先祖の身体が消えていたのだ。そして、より重要なことに、私のタイムマシンも消失していた。
まさか。先祖の身体が時間を移動してしまったというのか。私は声すら出せなくなった。
彼がいたという証拠がなくなり、自分もまた帰られなくなった。目の前が真っ暗になる。
茫然としたまま、ふと、壁にかけられた写真が目に入った。そこには気難しい表情をした先祖が写っている。慌てていたから気が付かなかったが、彼は私と瓜二つだった。
そうか。私が彼になればいいのか。そうすれば、先祖の存在の整合は取れる。私は彼の功績を全て知っているし、声も似ていることがさっき証明されている。
私は覚悟を決めた。彼の人生を乗っ取る覚悟を。そして、私自身の人生を捨て去る覚悟を。
遠い未来、過去から帰還した博士の姿を見て、彼らは悲鳴を上げた。博士はすでに息をしていなかったからだ。
タイムマシンの使用についての危険性が取り沙汰され、使用が禁止された。しかし、それはもはや、先祖その人となった、タイムマシンの生みの親の知るところではなかった。
正しい歴史とは何か?
闇の中を雪が舞っている。遠く高いところから無数の雪の欠片が落ちてくるところを見上げていると、郷里の冬を思い出す。男はじっと闇の中で雪を見ている。
安藤輝三は、静かに雪の上で足踏みをした。胸元を探り、そっと懐中連絡気を取り出す。銀色の蓋を変えると、淡い緑色の光が丸く浮かんで見える。今のところは順調に「確定」が進んでいるらしい。
掌で体熱を吸って緑色に光っているこの機械が、今の俺の生きるよすが。だが、この数字が夢でないと誰が断言できるのだろう?
安藤は、ぱちんと音を立てて蓋を閉じた。彼は、歩き出す。その目的地に向かって。
そう、俺は銃で撃たれたはずだ。自決に失敗し、取り調べの際に弁明する機会も与えられぬまま、刑場の地面に掘った穴の中で銃声を聞いた。
だが、この生々しい感覚は何だろう。彼は、自分の後ろに規則正しく続く、遠いこだまのような無数の軍靴の音に耳を澄ます。
なんという現実。なんという矛盾。そうだ、俺は何度でもこの道を行くだろう。これは自分の意思なのだ。昭和維新の目的を果たすため、俺は兵たちと一緒に今この坂を登っているのだ。
もう一度、果たせるものなら果たしてみせよう。やれるものならやってみせよう。自分の決心を、信念を、後悔はしていない。
午後四時五十分。今度は何も起きなければよいのだが。安藤は、正規残存時間内での二度目の鈴木貫太郎侍従長官邸の襲撃に向け、精神を集中した。
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