傷を癒すために『居るのはつらいよ』東畑開人


「何もしなくてもいいよ」

 

 

 いつからだろう、その言葉が人を傷つけるものへと変わってしまったのは。何もしないでいることが何よりも苦しいものになってしまったのは。

 

 

 ふと、私は妻から言われた言葉を思い出した。妻は、一年前に家を出ていって以来、帰ってきていない。

 

 

 それは最後通告に等しい言葉だと思う。あまりにも残酷な言葉。優しさを装って、内には鋭いナイフを隠している。

 

 

「その場にとどまり続けるなら、走り続けないといけないよ」

 

 

 アリスに赤の女王はそう言った。その場に居るためには、汗を流し、息を荒げ、顔を赤くしても、足を動かし続けていないといけないのだ。

 

 

 私は会社にしがみつくために、必死で走り続けた。妻のため、娘のために。会社にいるために、走り、走り、走り続けた。

 

 

 けれど、私は躓いた。それは、誰かが躓かなければいけなかった石だ。たまたま、私が近くにいたからに過ぎない。

 

 

 私が会社に居られなくなったのは、走るのをやめたからだ。目的を失って、もう走る気力は残っていない。ならば、あとは、後続に抜き去られていくだけの敗者だ。

 

 

 『居るのはつらいよ』という本がある。カウンセラーを志しているハカセ、東畑開人先生の一冊だ。

 

 

 デイケアでは「居る」ことが何よりも大切だという。近くに「居る」ということが、どんな薬よりも人の心を癒すと知っているから。

 

 

 けれど、「居る」ことは、実のところ、「何かをする」よりもずっと難しい。アリスが走り続けないといけないように。

 

 

 東畑先生もまた、沖縄のデイケアでその難しさを思い知る。話を聞いて人の心の闇を取り除くカウンセラーと、居ることで人を癒すデイケアはまったく違ったものだ。

 

 

 けれど、誰も「居る」ことが難しいことに気が付いていない。かつての私もそうだった。

 

 

 仕事に精を出すことで前に進んでいるつもりだった。けれど、蓋を開けてみれば、私は必死に今居るところにとどまろうとしただけだったのだ。

 

 

 今の世の中は「ただ居るだけ」を許してくれない。何かをしなければ、生きることさえ否定してくる。

 

 

 今にして思えば、どうして私はあんな会社に執心したのだろう。勤めていた会社は、俗にいう「ブラック企業」というやつだった。

 

 

 その場に居続けるために、身を削り、心を削り、命を削る。その場に居続けるために走り続けることが、いずれ存在すらも居続けることのできない世界へと追い込んでいく。

 

 

 命は素晴らしい。生きていることに感謝を。おかしなことを言う。そんなに甘いものはないのだ。

 

 

 社会は冷徹だ。何かをしなければ生きる資格など与えられない。見返りがなければ、誰も手など差し伸べない。

 

 

 少し前に、ネットで話題になった。避難所がホームレスを受け入れ拒否したというニュース。

 

 

 台風から避難してきたホームレスを、避難所は「都民のために避難所だから」と断ったという。世論は賛否あったが、自治体の判断に賛成する声が多い。

 

 

 命は素晴らしい。言葉にするのは簡単だ。いかにも美しい、きれいな言葉だろう。言っているだけで素晴らしい人間になったような気分になる。

 

 

 しかし、社会の行動は伴っていない。私たちは批判もするし、同情もするけれど、誰も行動はしないのだ。

 

 

 結局、「命は大切」な理想との間には「現実」の壁がある。きれいごとなんて、何の役にも立たないのだ。

 

 

 デイケアは癒すために「居る」。けれど、傷つき、苦悩し、疲弊して、「居る」ことすらも難しくなる。

 

 

 頼む。頼む。誰か助けてくれ。もう私は走りたくないんだ。嗄れた喉が叫ぶ。けれど、手は差し伸べられない。

 

 

 この世界に「居る」ためには走り続けないといけない。もう満身創痍だ。それでも、生きていくためには、命を削って走らなければならない。そういう社会なのだから。

 

 

うさぎ穴の落ちた先

 

 2009年の年の瀬、27歳になる直前、僕は就職活動をすることになった。満を持して、社会に出ることになったのだ。

 

 

 思えば、その頃は人生の絶頂期だった。学部に4年、大学院に5年という長く苦しい学究生活の末にハカセになったところだったからだ。

 

 

 絶頂ハカセも就職活動をしなくてはならない。これ以上、大学院に在籍することができないから、どこか新天地を探さなくてはならないからだ。

 

 

 周囲のまともなハカセたちは、粛々と就職活動に取り組んでいた。みんな大学教員や研究員というアカデミア関係の就職を目指していた。

 

 

 だけど、僕は違った。「病院で働く」と心に決めていた。

 

 

 僕は「臨床心理学」という心の援助に関わる学問を学んだ。そういう学問を修めたハカセが、現場で実践をしないなんて堕落の極みであると燃えていたのだ。

 

 

 いざ出航、してみたはいいものの、僕は即座に座礁した。就職活動を始めてみると、まったく仕事がなかったからだ。

 

 

 夜な夜なインターネット空間を徘徊し続けた。とっくのとうにハカセ的絶頂期は過ぎ去っていた。正規雇用もセラピーもない現実に直面して、膨れ上がった自尊心は儚く萎んだ。

 

 

 だけど、臨床心理学の神様は僕を見捨てはしなかった。明けて2010年の正月。月給25万円、賞与六か月の常勤臨床心理士募集とノートパソコンに映し出されたのだ。

 

 

 なんと、そこは沖縄。そこからは一気呵成だった。一度決めてしまうと、僕は行動が早い。状況はめまぐるしく動いた。

 

 

 まるでうさぎ穴だ。だけど、当時の僕は自分がうさぎ穴を転落していることに全く気付いていなかった、僕はこの時、完全に、徹底的に、致命的に、愚かだった。

 

 

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