「吉本ばなな」という作家の名前を見て、まず思ったのは、どこかとぼけたような、おかしな名前だなぁということだった。
その印象が大きく変わったのは、彼女を代表する名作である『キッチン』を読んでから。
主人公の女性が身近な人を失ったことをきっかけに「死」を見つめ直していく物語に、私は圧倒された。
「死」は恐ろしく、考えるだけでも気分が沈むようなもの。できることなら、誰もが触れることすら避けたいと思うだろう。
それを描くためには、作家本人も「死」と向き合わなければならない。「死」を描くというのは、それほどの覚悟が必要になる。
しかし、吉本ばなな先生はそれをやってのけた。それどころか、何よりも私が驚いたのは、その瑞々しい文章からは死に対する恐怖も気負いも、何ひとつ感じられないことである。
死のおぞましい気配を前にして、それを静かな表情で見つめる先生が、筆を執って物語を書いている。そんな構図すら、頭に浮かんでくる。
その姿は、まるで知り合いと会っているかのように自然体に思えた。その風格が、文章という形を持って現れているような気がしたのだ。
吉本ばなな先生の書いた『イヤシノウタ』を手に取ったのは、そんな先生の内面にその一端でも触れてみたいという欲望が私の中にあったからかもしれない。
『イヤシノウタ』は吉本ばなな先生が自身の経験や考えを記したエッセイである。時系列もテーマもばらばらに、先生の思うがままのことが綴られている。
『イヤシノウタ』というタイトルは、忌野清志郎さんの歌からとられているらしい。そこには、吉本先生の抱く考え方があるという。
読んでいて癒される、けれど、それをどこか皮肉げに見ているような。本当の意味で人を癒すことができるのは、自分自身なのだ、と。そんな意味が込められたタイトル。
生きていくペースも、望みも、人それぞれ。その人自身に合った生き方があり、その人に合わないことはしなくてもいい。
そのことには、読んでいた私も深く共感した。生きているだけで、いろんな人が気にしてくる。現代の人たちは、おせっかい焼きで、批判屋だ。
けれど、それを気にしすぎていたり、はたまた自分自身がそれをするために行動する、というのは、果たしてその人自身の人生を歩んでいることになるのだろうか。
その人の人生には常に他人がいる。他人がいるどころか、自分ではない、他人を中心に世界が回っている。自分はその輪に振り回されているばかりだ。
誰か、ではなく、あなたがどうしたいか。あなたがどうなりたいか。それを追いかけていくことが、自分の人生を生きるということなんじゃないか。
『イヤシノウタ』は、そうした「人生」についての疑問、「死」についての思想、「自分」という存在への懐疑、そうした心の奥底に沈んでいる思索を、浮き彫りにしてくれる。
心の中にある水面に手を入れて、波紋が立つ中で、水底にある大切なものを掬い取るような、けれど、それをしているのは紛れもない、自分自身なのだ。
そのことを、教えてくれる一冊だった。淡い文体の綴る穏やかなエピソードに隠された、皮肉や問いかけ。それは決して「癒し」だけにとどまらない。
まさに吉本ばなな先生のエッセイだと感じた。透明な文章から一歩進めば、重く苦しいテーマがある。だからこそ、どうしようもなく心惹かれるのだ。
穏やかな時間の流れるエッセイ
「ほっぺにさわらせて」
八十五歳になったあっこおばちゃんはそう言った。そして私のほほを、まるで小さい赤ちゃんのほっぺたを触るように触った。
もう五十歳になって、だんだんたるみはじめた自分のほほが宝物のように思えた。
彼女は私と姉の小さな手の感触をまだ覚えているとしきりに、何回もくりかえして言った。
父と母が取材や撮影に夢中になると、私と姉は「あっこおばちゃ~ん」と言って、あっこおばちゃんのところに走ってきて、争うように手をつないだのだと言う。
子どもを持たなかったあっこおばちゃんの人生に最もあっこおばちゃんを愛した子どもたちは私たちだったんだろう。
姉が五十七、私が五十。もう私たちの手が小さかった頃を覚えていてくれる人はほとんどいない。
もう歩けなくなって、家から出られなくなったと言っていたから埼玉まで会いに行った。
懐かしいわ、懐かしいわ、たくさん思い出があるってほんとうにすばらしいことだって最近思うの。小さい手の思い出をいつも思い出してるの。
いろんなことがなんと遠くに行ってしまったんだろう、と雨が伝う窓を見ながら私は思った。遠くに行ってしまったものはなんでみんなこんなにも美しいんだろう。
でも小さい時、ときどき私は未来の自分のまなざしを感じていた。
「なんてことないように思えることが、あとですごくだいじになるよ」
そうか、そう思った方がいいんだろうな、と私はぼんやり思ったものだった。やっぱりそうだったのかと今は思う。
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