正論の恐ろしさ『誰の味方でもありません』古市憲寿


 智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。さて、これは誰の言葉だったろうか。

 

 

 私が仕事を辞めて、都会を離れ、小さな田舎町に居を移したのは、つい一年か二年ほど昔のことである。

 

 

 隙間風の差し込む古びた家は、土地の老人から格安で借り受けたものだ。都会と比べると、驚くほどの安さだった。

 

 

 家々の集う集落よりも少し離れたその家は、静寂に包まれている。しかし、今の私にはそれこそ必要なものだった。

 

 

 私はカバンの中から一冊の本を取り出す。持ち込んだ数少ない荷物の中のひとつである。

 

 

 それは、古市憲寿先生の『誰の味方でもありません』という。週刊誌に掲載された先生の文章をまとめたエッセイのようなものだ。

 

 

 私が都会から田舎に引っ越す後押しをしたのは、この本だった。大いにこの本の内容に共感したのである。

 

 

 私は四年制の大学を卒業した直後、すぐに仕事に就いた。特にやりたい仕事というわけではなかったが、嫌いな仕事ではない。それだけのことだ。

 

 

 しかし、ほどなく、私は精神的に追い込まれるようになっていった。とはいえ、何かしら特別に辛いことがあったわけではない。

 

 

 当時の私は、人間が怖くなっていたのだ。それは誰かしらの行動によるものというよりも、私の中に生じた長年の歯車の軋みが一気に噴出した、それだけのことである。

 

 

 しかし、もはやどうしようもなかったと言えるだろう。私は精神を病み、仕事を辞め、人目を避けるようにこの寂れた家へと引っ越したのだ。

 

 

 『誰の味方でもありません』という表題は、まさしく私の対人関係での姿勢を如実に表したものである。

 

 

 私はまず、競争というものを好まなかった。理想とされる切磋琢磨している連中などどこにもいない。誰もが勝つために手段を択ばず、他者よりも優位に立つことを最善とした。

 

 

 人は時として、味方を求める。私の友人であった二人が仲違いをした。双方がどちらもあることないこと嘘をついて、私を自分の側へと引き入れようとしていることがわかった。

 

 

 私は彼らのどちらとも大切な友人であり、一方を選ぶことなどできなかった。結局、私はどちらも選ばないという選択をした。

 

 

 それがよくなかったのだろう。私の日和見主義的な結論は、「二人にとっての味方」ではなく「二人にとっての敵」となった。

 

 

 彼らのどちらともが、いつしか相手ではなく私の陰口を自分たちの友だちに吹き込むようになり、私はクラスから孤立した。

 

 

 しばらくして、彼らが楽しそうに話している姿を見かけた。彼らは私の陰口で盛り上がっているようだった。

 

 

 人の世は難しい。私は平和であることが好きだ。自分にも人にも誠実になろうと考え、誰もが幸せになればいいと思う。

 

 

 しかし、誰かの幸せを願うと、自分だけが不幸になる。誠実になろうとするも、世の中そのものが誠実ではない。平和であればあるほど、人間は闘争を求める。

 

 

 世の中は矛盾と欺瞞に満ちている。社会に出た私は、その答えを見出した。そして、世の中をそんなふうにしているのは人間である。

 

 

 次第に、私は人間を怖れるようになった。社会から抜け出し、ひとり山奥で命尽きるまで暮らしたいと願うようになった。

 

 

 私は、昔からずっと誰の味方でもありたくなかった。そして、誰かの敵にもなりたくなかった。

 

 

 ただ、透明人間のように消えてなくなりたい。それだけが、今の私の願いだ。

 

 

正論は鋭利な武器となる

 

 この頃の日本は、なんだか怒りっぽい。不倫や不貞、ハラスメント、差別など、とにかく毎日のように誰かが怒られている。

 

 

 誰かが何かをやらかすと、ツイッターなどで盛り上がり、それをテレビのワイドショーに取り上げ、日本中から糾弾されるというのがお決まりのパターンだ。

 

 

 すべて「正論」だ。しかし考えなければならないことがある。「正論」は、切れ味があまりにも鋭すぎるということだ。

 

 

 「正論」は誰も否定できない。だから「正論」は、時に過剰になり、凶器にもなり得る。「正論」という武器を使えば、誰かを血祭りにあげるのは簡単だ。

 

 

 「正論」を唱える人は、自分が誰かを血祭りにあげているという意識はないのかもしれない。彼らは「正しさ」のため、社会を良くするために、正当な理由とともに誰かを批判しているに過ぎない。

 

 

 こういった炎上が、本当にこの社会を良くしているのならいい。だが、「正論」の人々は、次から次へと攻撃対象を変えて、「正論」を唱え続けるだけだ。

 

 

 結局、そうした炎上が何をもたらしているかといえば、人々の口が重くなったことくらい。だけど本当にこれでいいのだろうか?

 

 

 自分が書いたり発言する時に意識していることがある。

 

 

 まず「正論」を振りかざすときには、謙虚であること。誰も逆らえない「正論」という武器を使う時には、よほどの抑制が必要だ。

 

 

 そして「正論」を疑ってみること。絶対的な「正しさ」を追求するのではなく、一歩引いて会社を見るくらいが丁度いい。そんなスタンスで書いてきた文章をまとめたのが、この本だ。

 

 

 「正しさ」はしばしば対立する。完璧な「正しさ」を求める人々は、ほぼ間違いなく喧嘩別れをする。自分が全て「正しい」と信じる人は、世の中にあるほとんどのものが「間違い」に見えてしまうからだ。

 

 

 それならば、常に少し肩の力を抜いていた方がいい。鷹揚でいられる人を増やすことこそが、実はいい社会を作っていくコツなのではないかと思う。

 

 

 この本を読むことで、少しでも毎日が楽になったり、新しい気付きを得る人がいたら、とても嬉しい。

 

 

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