広島の平和記念公園には、ひとりの少女が大きな祈りの鶴を抱えて立っている。見上げれば、原爆ドームが悠然と眼下を見下ろしていた。
かつて、この地は焦土と化した。多くの人たちが苦しむ間もなく焼き尽くされ、生き残った人も後遺症に苦しめられたという。
戦後の光景から現在を、日本が取り戻せたのは、まさに奇跡であろう。その陰には、懸命に日本のために力を尽くした人たちの姿がある。
出光佐三もまた、そんな人たちのひとりであった。石油元売り会社である出光興産の創設者である。
私が広島を訪れたのは、彼をモデルに描いた作品、『海賊とよばれた男』を読んだからだった。
国岡商店という石油会社を立ち上げた国岡鐡造という男の生涯を描いた作品である。この鐡造という男に、私は大いに魅了された。
政府による統制を嫌い、社員を家族としてひとりひとり愛する。利益よりも、日本のため、社会のためになることを志して行動する、真の日本人というべき男。
読めば読むほど、彼の人格に魅了されている自分を感じた。広島に赴いたのは、戦後という日本にとって絶望的な状況を目に焼き付けようと思ったからだ。
国岡商店は敗戦によって何もかもを失い、主軸だった商品である石油すらも扱えず、全てを一から再出発した。
多くの企業が苦境に瀕して社員の首切りをする中、国岡商店はひとりもやめさせることなく、ただ鐡造の信念のもとに立ち上がったのだ。
それはまるで、敗戦によって焦土と化した日本が立ち上がるまでの姿そのもののようにも感じられた。
しかし、同時に感じるのは、文章に宿る鐡造の溢れんばかりの熱に、浮かされてはならないという戒めである。
彼の滅私すらも厭わない信念と国岡商店の店員たちの抱える熱意は、さながら酒のような魅力と中毒性を持っているように感じた。
日本人として、その精神はまさしく魅力的だ。思わず、そう感じてしまう。しかし、同時に、そこには間違いなく日本を勝てない戦争へと導いた狂気が潜んでいる。
国岡商店はタンクの底の石油を掬う仕事を引き受けた。それは誰も引き受けないような、過酷な重労働だった。
国岡商店の社員は、夏も冬も、危険なガスの蔓延するタンクの底に下りて、泥と油まみれになりながら作業を続ける。
厳しい労働にもかかわらず、彼らの表情には笑顔が浮かぶ。労働できて幸せだという。彼らは本当に幸せなのだろう。
しかし、それが私には恐ろしかった。彼らがその仕事を幸せだと感じてしまうという、その事実が。
現代の社会から見ると、彼らの精神はぞっとするような代物だろう。日本の兵隊を相手にするアメリカの兵士も、かつては同じことを思ったのではないだろうか。
社会のため、仕事のために、どこまでも自分という存在を蔑ろにできる。むしろ、その滅私こそを誇らしく思う。
資源の少ない小さな島国に過ぎない戦時中の日本がアメリカを心底から恐怖させたのは、その精神性だ。
国岡商店の社員は、誰もが戦後になってもまだ、戦争を続けているのだ。戦争を導いた狂気から、未だに抜け出せていない。
戦後の日本は絶望的な状況だった。原爆ドームに残された写真は、想像すらもできないほどのものだ。
そんな日本を建て直した彼らに、私は心から敬意を表する。彼らがいなければ現代はなかった。必死に日本のために力を尽くした彼らがいたからこそ、私たちが今の生活を享受できるのだ。
だが、私は彼らのようには、絶対になりたくない。「サムライ」の時代はもう、遥か昔に終わったのだ。
日本を支えた最後の海賊
青い空がどこまでも続いていた。湧き起こる白い入道雲のはるか上には、真夏の太陽が燃えていた。
見上げる国岡鐡造の額に汗が流れ、かけていた眼鏡がずれた。今しがたラジオで聞いたことを頭に反芻した。
日本は戦争に負けた――自分の立っている足もとが巨大な沼となり、ずぶずぶと沈み込んでいくような錯覚を覚えた。絶望が全身を覆った。
これが世界を相手に戦った結末なのか。この国はどうなってしまうのか。日本という国は亡んでしまうのだろうか。
いや、と鐡造は思った。日本人がいる限り、日本が亡ぶはずはない。この焦土となった国を今一度建て直すのだ。
鐡造の乗るオペルは銀座に着いた。国岡商店の本社である「国岡館」は奇跡的に焼失を免れていた。
国岡商店の海外の営業所は六十二店、これは国内の八店をはるかに上回る。おそらく海外の営業所はすべて失われるであろう。
八月十七日の朝、社員たちが国岡館の二階にある大会議室に集まった。鐡造は壇上から社員たちを見渡した。皆、一様に不安そうな顔で自分を見つめている。だからこそ、彼らに言わなくてはならない。
「今から、皆の者に申し渡す」
鐡造を見つめる六十名の社員が一斉に強張った。甲賀は、店主が国岡商店の終わりを告げるのだろうと思った。
国岡商店は鐡造が一代で築き上げた石油販売会社であったが、戦前戦中、活動の大部分を海外に置いていた。戦争に負けたということは、それらの資産がすべて失われるということを意味していた。
「愚痴をやめよ。愚痴は泣き言である。亡国の声である。断じて男子のとらざるところである」
社員たちははっとしたように鐡造の顔を見た。甲賀もまた驚いて鐡造を見た。社員たちの体がかずかに揺れた。
「日本には三千年の歴史がある。すべてを失おうとも、日本人がいる限り、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る。ただちに建設にかかれ」
社員たちの背筋が伸びるのを甲賀は見た。ホールの空気がぴんと張り詰めたような気がした。しんと静まり返った中に、鐡造の声が朗々と響いた。
「日本は必ずや再び立ち上がる。世界は再び驚倒するであろう」
店主の気迫に満ちた言葉に、甲賀は身体の奥が熱くなるのを感じた。鐡造は壇上から社員たちを睨みながら、「しかし――」と静かに言った。
「その道は、死に勝る苦しみと覚悟せよ」
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