冷めた同棲カップルの行き場のない感情『しょうがの味は熱い』綿矢りさ


綿矢りさ先生の作品を読むと、どうしてだか切なくなる。それは、どこか淡々としている先生の文体のせいかもしれないし、繊細な感情に揺れている女の子たちに同調してしまっているからかもしれない。

 

『しょうがの味は熱い』を読んだのは、綿矢りさ先生の作品では三つ目だった。『インストール』、『蹴りたい背中』に次いで。

 

主人公が学生だった他の作品と比べて、『しょうがの味は熱い』の奈世は、結構大人。でも、その内面は今まで以上に幼い、少女のように見える。

 

奈世と絃は何年か同棲している恋人同士。だけど、彼女たちの間には甘い雰囲気はなくて、どこかよそよそしい。情事の時ですら、淡々としている。

 

けれど、想いが冷めているのかと思えば、そんなことはなくて。奈世はむしろ絃のことが好きで好きでたまらないのが伝わってくるくらい。

 

絃も、奈世のことを大事に思っているのだろうとは感じる。でも、なんだか煮え切らない。別れる気はないけど、先に進む気もない。そんな感じ。

 

彼と結婚したい奈世と、のらりくらりと結婚の話題を避ける絃。奈世の性急な態度にもちょっと引き気味になるけれど、絃の曖昧な態度にも腹が立つ。

 

そんな二人の、ボタンを掛け違えたようなすれ違いが、大きな事件を引き起こした。はらはらして、この先どうなるのだろうと胸がざわめいて、でも少し小気味よかった。

 

読み終わった後、私はちょっとぼんやりとした。二人の間が何か変わったかと言われたら、何かが変わったとも、あるいは何も変わっていないとも思えるような、そんな曖昧な結末だった。

 

すっきりしない、もやっとした、でもきっと、男女の関係なんてこんなものなのかもしれない。きれいに大団円なんてなくて、かといって悲劇というわけでもない。

 

私はやっぱり、絃ではなくて奈世の側に立った。もしも、自分が彼女の立場だったなら、どうするだろう。益体もない妄想を、巡らせてみる。ほんのお遊び。

 

絃、じゃないけど、彼のことが好きで好きでたまらない。結婚したい。でも、どうすればいいのかわからない。頑張れば頑張るほど、彼が遠ざかっていく。

 

私なら、想いが冷めてしまう気がする。そんなに人を好きになるとは、今の私は思えないけれど、奈世のように振り向いてもらおうと頑張るとは、到底できなかった。

 

そういう意味では、奈世は強いと思う。愚かだけど、強い。彼女は自分の愚かさを理解したうえで、それでもなお、愚かであることを選んだ。何度も愚かであることをやめようとして、それでも。

 

じゃあ、絃はどうか。彼は奈世と別れる気はない。でも、結婚する気も、今のところ、ない。つまり、今のままで居続けることを望んでいる。

 

男の人は、女よりも年齢に対する考えが薄いと思う。男にとってはそうでなくても、女にとって三十代という年齢は大きな意味を持っている。それはもう、大きな。

 

もしも、絃が結婚してくれなかったら。奈世が焦るのもわかる。恋人以上夫婦未満の居心地のいい環境にいつまでも浸っていたいという気持ちはわからないではないけれど、その優柔不断は、女にとってはあまりにも残酷だ。

 

覚悟を決めて結婚をするか、それともいっそすっぱりと別れるか。どちらにしても選択をすることが奈世のためになる。彼は自分のために選択することを先延ばしにしていた。

 

私が絃なら、と、考えても意味がないのは、私がすでに奈世の側に立ってしまっているからだろう。でも、きっと私が男で、女のそういった事情に無頓着であったなら、絃のようにしたかもしれない。

 

彼らの物語は、決して幸せなものじゃなかった。読んでいるだけで切なくなって、胸が痛くなる、そんな物語だった。

 

でも、私は奈世を羨ましいと思う。好きという感情に身悶えて、翻弄されて、涙を流して。苦しんでいる彼女は、賢くあることを忘れて、「好き」に身を任せて愚かになれる。苦しくなるほど、誰かを好きになれるのだから。

 

 

奈世と絃

 

整頓せずに詰め込んできた憂鬱が扉の留め金の弱っている戸棚からなだれ落ちてくるのは、きまって夕方だ。紙ばさみに目を落としている絃の、まだ会社での緊張が解けていない肩が、なぜか耐えられないほどに切ない。

 

「絃、どうかしたの」

 

「なに?」

 

「なんだか沈んでるみたいだから」

 

「そうかな。まあ疲れてるけど」

 

「会社でなにかあったの」

 

「ちょっと」

 

絃はまた会社から持ってきた仕事に戻る。今日は休日出勤だったのにまだ働いている。なにをそんなにすることがあるのか。アルバイトしかしたことのない私にはわからない。

 

今日お互いに起こったことを話したり、お腹は空いているかいないかなどのやりとりは家で彼の帰りを待ち、彼が帰ってきたことがとてもうれしい私にとっては大切だけれど、家でもやらなければならないことがたくさんある絃にとっては、削ってもいい時間の第一候補になるだけなのだ。

 

味噌汁を飲んで身体が温かくなったら、憂鬱の影が薄くなってきた。ついさっきまで泣きそうだったのに、絃といっしょにご飯を食べただけで気持ちが晴れてきた。

 

帰ってきた彼が言葉少なだと、二人で暮らす生活がもうじき終わってしまうんじゃないかって不安に駆られる。

 

晴れたり翳ったりと気持ちが不安定なのは、恋のせいだと思っていた。でも実際は私は甘えているだけかもしれない。絃にではなく”恋”という言葉に。

 

 

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