飛び下りたのは誰?『冷たい校舎の時は止まる』辻村深月


 このまま時間が止まってしまえばいいのに。教室の隅でひとり、私はそんなことを思った。

 

 

 雪がちらつく空を見上げる。自分の口から吐き出された息が白く染まっていた。どんよりと灰色の雲に隠された空は、かすかに薄暗い。

 

 

 子どもの頃ははしゃいでいた雪も、今や寒いと思うだけだ。風を遮る壁のない屋上は、予想していたよりも寒かった。

 

 

 まるで辻村深月先生の小説のようだ。なんて思うのは、つい先日、読んだばかりだからかもしれない。

 

 

 『冷たい校舎の時は止まる』。それがその小説のタイトルだった。辻村先生の作品はいくつか読んだことがあるけれど、普段のどこか温かみのある青春小説とは随分異なる雰囲気を持っていた。

 

 

 印象的なのは、作者の名前と同じ、辻村深月という女生徒が登場するところ。だからか、他の作品よりも印象深かった。

 

 

 深月は高校三年生。雪がひどい日、学校が休みかと不安に思いながらも登校する。

 

 

 同じく登校してきたのは、成績優秀な幼馴染の鷹野と、一時期よく一緒に帰っていた昭彦。

 

 

 停学期間が晴れて久しぶりに登校してきた菅原に、担任の榊のことが大好きな梨香、そして梨香に淡い想いを寄せている充。

 

 

 中性的でクールな性格の景子、そして、絵を描くのが得意で成績もトップの秀才、清水。

 

 

 しかし、教室に着いても彼らの他には、他のクラスの生徒どころか教師すらも、誰もいなかった。

 

 

 彼らは最初、担任の榊が仕掛けたイタズラだと疑っていた。しかし、それも違うようだと考え始める。

 

 

 玄関の扉も窓も開かない。時計を見ると、五時五十三分の時間を指したまま、止まっていた。彼らは得体の知れない現象に恐怖する。

 

 

 鍵を握るのは、学園祭の直後に飛び下りたひとりの生徒。それは彼らの中にいる。しかし、誰もその生徒の名前や顔を、思い出すことができなかった。

 

 

 落ちる。落ちる。作中に何度も出てきた言葉。それは、私の胸にも深く刻まれている。

 

 

 視線を下に向けると、誰もいない校庭が目に入る。普段は野球部が騒がしいこの時間も、雪が降っている今日はさすがに練習を休むようだ。

 

 

 積もるだろうか。この地域は雪が少なく、滅多に積もることはない。しかし、この様子なら、明日の早朝辺りは雪が残っているのではないだろうか。

 

 

 ここから落ちたら。ふと、そんなことを思う。今、この目の前の柵を乗り越えて、一歩だけ、前に進めば。あっという間に私の身体は宙を舞うのだ。

 

 

 そういえば、小説の冒頭に載っていた新聞記事には、受験ノイローゼとか書かれていたっけ。私が今、飛び下りれば、同じように受験ノイローゼだと思われるのだろうか。

 

 

 いっそ、落ちてしまえば楽なのかもしれない。受験も、人生も。輝かしい未来を台無しにすることを、夢に見る時だってある。

 

 

 もし、私が落ちたのならば。クラスメイトたちは私を思い出してくれるのだろうか。忘れないでいてくれるのだろうか。

 

 

 いじめ。受験。友だち。教師。この狭い学校という鳥籠の中、落ちる原因なんていくらでもある。問題なのは、一歩踏み出すか、どうか。

 

 

 受験まであと数か月。私の成績が志望校に届かないことなんて、わかりきっている。その時を迎えるのが、たまらなく怖かった。

 

 

 この時が止まってしまえば。落ちてしまえば、私の時間は止まる。世界中の時計が時を刻む中で、私の時間だけが止まるのだ。

 

 

 なんて。どうせ、私には、一歩足を踏み出すこと、できるわけないのだけれど。私は白い息を吐いて、柵から一歩、二歩、離れる。

 

 

 雪はずっと降り続けている。大切だったはずの記憶を覆い隠すかのように。あの時、振り返った誰かの顔を、思い出から隠してしまうかのように。

 

 

落ちたのは、誰?

 

 落ちる、という声が本当にしていたかどうか。それは、今となってはもうよく思い出せない。

 

 

 その声は、あの時のあの瞬間、確かにどこかでしていたと思うし、自分が聞いたのだとも思うのだが、誰が言ったのか、どんな風な声だったのかということになると、途端に曖昧になって定かでない。

 

 

 ただあの時、頭の中は真っ白になった。痺れたようにひくついたその脳裏に、たったひとつ、静かな声がふっと浮かび上がり、それが確かに告げていた。落ちる、と。

 

 

 凍り付いたように動きの一切を止めた空気の中、彼は固唾を呑んで屋上を見上げていた。

 

 

 三階建ての校舎の上、一番高い場所、屋上。そこに制服姿の人影が貼りついている。

 

 

 見上げるために傾けた首が痛む。その痛みが示すように、そこは高い。絶望的に高い、と何故かそう思った。

 

 

 どうしてあいつがあんなところにいるのだろう。今日、あいつは何をしていたのだろう。今日、俺たちは何をしていたのだろう。あいつは何がしたいのだろう。

 

 

 屋上のフェンスを背に、項垂れたように下を向いた首は動かない。その耳には、自分の名前を呼ぶ声も、制止の叫びも、一切が届いていないように思われた。

 

 

 何もできずに、ひたすら見上げるだけの彼の目にぐらりとその人影がバランスを崩すのが見えた。

 

 

 その一瞬に耳元で声が聞こえた。落ちる、と。目を逸らすことができない。女子の甲高い悲鳴が上がる。誰か、誰か、と呼ぶ声がする。

 

 

『落ちる』

 

 

 黒い影の身体が、今フェンスを離れる。

 

 

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