僕には兄がいる。二歳ほど年上の兄だ。もう長い間、僕と兄との間に会話はない。僕は兄のことが、たまらなく嫌いだった。
それはまさしく17歳の羽田圭介が書いた『黒冷水』のようだった。兄の正気が弟の修作に抱く憎悪が、僕の胸にもあるように感じるのだ。
修作のあさり癖に悩まされている正気と、正気への恐怖とコンプレックスに溺れている修作。
彼らの憎悪と行為は次第に激しくなり、正気は罠を仕掛けて弟が傷つくように仕向け、弟の恥を家族に晒す。
あさりのプロを自称してバレバレなのに真剣に部屋をあさる弟も、そんな彼に対して本気で報復を考える兄も、どこか滑稽だ。
思春期の本人たちにとってはどれも大事件なのだろう。それがわかるからこそ、傍目から見れば、いっそおかしくなってくるくらいだ。
しかし、次第に彼らの喧嘩は取り返しのつかないところにまで行き着いてしまう。そのきっかけは、兄の心臓に『黒冷水』が満たしてからだった。
この、兄の心に満ちて、そして今、僕の心にもある「黒冷水」とはいったい何か。考えてみたことがある。
正気は、それを「弟への憎悪」だと感じていた。けれど、私は違うと思う。
狂気。正気という名前の青年に、それが宿っていたことも皮肉だろう。この兄弟はあまりにも歪で、その根源は弟ではなく兄にある。
弟を敵とみなして、幼い頃からいつも弟よりも優位に立つためにしてきた。彼の心にあった「黒冷水」が彼を支配したからこそ、滑稽なだけの兄弟喧嘩が悲劇を生むことになったのだ。
生まれて以来、自分ともっとも近しいところにいたもの。切ろうとしても決して切れない繋がり。その大切なはずの繋がりをたまらなく憎む狂気こそが、「黒冷水」の正体だ。
友人は『黒冷水』を読んで「気持ち悪い」と言った。それは、家族という自分の大切な存在をこれほどまでに憎悪する兄弟の歪さが、気持ち悪く感じるからだろう。
僕はそうではなかった。むしろ、僕は心地よく感じたのだ。自分の心にある得体の知れない感情。その正体が、ようやくわかったのだから。
僕の兄は正気のように自分勝手で傲慢な性格ではない。弟の僕にも優しくて、なんでもできる。自慢できるような兄だった。
兄は子どもの頃からよく遊んでくれた。傍目から見れば、僕と兄はたいそう仲のいい兄弟に見えるのだろう。
兄は気づいているだろうか。気付いていないかもしれない。いや、もしかしたら、気づいていて、気づかないふりをしているだけなのかも。
僕と兄は今でもよく話すし、ゲームも一緒にする。笑いながらテレビを見る。よく似ていると言われる。
けれど、笑顔の下で、僕は憎悪に満ちた瞳で兄を見ていたのだ。いつだって。家族だから。嫌うのなんて、それだけで十分だった。
黒冷水が心に流れ込んでくる。ああ、この冷たさに身を委ねたら、僕はいったいどうなるのだろうか。
僕がその未来を想像して思わずにっと笑うと、兄も僕の顔を見て笑う。その慈しむような表情の中の瞳には、ぞっとするような冷たさがあった。
激化していく兄弟喧嘩
修作は、はやる気持ちを抑えながら、ドアを静かに開けた。兄の部屋の中には誰もいない。
いつだったか、兄にフェイントをかけられて危ない目に遭った。だが今日は大丈夫。兄の正気は、久しぶりの部活で夕方六時過ぎまで帰ってこないと、今朝母に言っていた。
まずは机の引き出しの取っ手に手をかける。約一か月ぶりなのだ、王道の「机の引き出し」から開けるのが礼儀というものだろう。
修作は期待を隠せない。取っ手を掴んでゆっくりと引く。引き出しの中が露わになった。引き出しの中を見回す。
きっと今日も中央の引き出しには何もない。メインディッシュはこれからだ。修作は机の支えとなっているサイドラックの上から三段目、一番下の大きい引き出しを引いた。
古い新聞、いくつものファイルなどがぎっしりと詰められている。これは手間がかかる。兄は様々なものをここにしまう。それも、見られたらヤバイものを、だ。
修作は慎重に新聞を抜き取り、しまってあった順に床に重ねていった。元通りにすることだけは忘れてはならないのだ。これはプロのあさり屋の鉄則だ。
A4サイズの封筒を見つけた。厚みは七、八ミリだ。口がしっかりと糊付けされており、完全に閉じてある。
スタンドで照らしながら封筒の中を覗いてみる。中にはまた一回り小さい封筒が入っていた。
そこまでして見られたくないものなのかよ。修作の気持ちは高ぶった。今日は大きな収穫を得られそうだ。
時間を置けばその間に収穫するものが溜まるというのは、農業か何かに似ているような気がする。
兄、正気は自分のこの中毒的楽しみのために、日ごろからせっせとこの空間に秘密を散りばめてくれる。
少しは自分のことを疑っているのだろうが、それでもあさっているうちの十分の一も気づいていないはずだ。その確信はある。
俺は部屋あさりのプロなのだ。ミスなどしない。お前が本当に隠し通したい秘密なども、すべて俺が暴いてやる。そう思いながら修作は作業を続けた。
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