吾輩は狸である。名前はまだない。人間の姿で、日がな一日を気ままに過ごしている。
しかし、何を隠そう、吾輩はかの八百八の狸を束ねる頭領、隠神刑部狸の実の息子なのである。
人は吾輩のことを、坊ちゃま、あるいは三十一番目の息子であることから三十一と呼ぶ。
そんな吾輩だが、今はしばらく父にも母にも、数十人はいる兄弟姉妹たちにも会ってはいない。
というのも、吾輩は今、家出の真っ只中だからである。絶賛反抗期中なのだ。ロックな日々である。
原因は父と喧嘩したことだ。我が家族は父が実質的な実権を握っており、父が心から怒れば、兄弟姉妹たちは逆らえない。
普段は父を尻に敷く母も、父が本気で怒った時には静かにするしかないのである。
そもそも、きっかけは吾輩が寺子屋で喧嘩をしたことであった。相手は餓鬼大将の虎屋である。
言い争いから始まったこの喧嘩は、吾輩が拳を叩きつけて以降は殴り合いに発展し、教師に止められるまで続いた。
私は右目に痛々しい青痣を作って片側だけ狸になったが、虎屋は歯が二、三本吹き飛んだ。痛み分けである。
しかし、吾輩が先に手を出したことから、話し合いの末に全面的に吾輩が悪いのだという結論に達した。
先生から呼び出されて、正座で座ったまま、長々と説教された。おかげで、説教が終わってからもしばらく立ち上がれないほどであった。
授業に戻ってからも、厳しい眼は吾輩に向けられたままである。同輩や教師まで、まるで吾輩を腫れ者のように扱ったのだ。
それでも、吾輩は大して堪えなかった。家族だけはわかってくれるだろうと信じていたからである。
しかし、帰宅した吾輩を迎えたのは、母と兄弟姉妹たちの温度のない視線であった。
「これ、お父様がお呼びよ。早く行きなさいな」
母に言われ、吾輩は父の部屋へと足を向けた。扉を開けると、威厳のある巨大な背中が吾輩を圧倒する。
その背中から怒気が溢れているのは明らかであった。吾輩は愕然とする。
「なんで呼ばれたか、わかっているな?」
そこからのことは記憶にない。ただ、父の部屋から飛び出した吾輩は、涙ながらに荷物も持たず、そのまま夜の街を駆けたのである。
それが我が人生、いや、我が狸生で初めての家出の始まりであった。
家族の絆
吾輩は涙をこらえていた。こらえきれぬ涙が我が毛を伝って、地面に小さな染みを作った。
どうして泣いているかと言えば、暇つぶしに寄った本屋の店頭で『有頂天家族』を立ち読みしたからである。
それは森見登美彦という人間が書いた作品で、狸を主人公とする物語であった。その売り文句に惹かれて、読んでみることにしたのである。
最初こそは、ふん、人間が書いたものなんぞ、と鼻で笑ってやるつもりだった。
よもや、鼻でずびずび言う羽目になるとは思わなかった。おかげで、吾輩が人に鼻で笑われている。
書かれている狸界は現実よりも幾分か優しい。腐っても大自然に生きる獣として、狸の世界は人間の思うそれよりも厳しいのだ。
しかし、そこに描かれている狸一家の家族の絆は、見ていて眩しいものがある。今の吾輩には、単刀直入に言って刺さる。ぶっ刺さりである。
目を閉じると、父の背中が、母の顔が、兄弟姉妹が浮かんでくる。目を開いたら、なぜ消えるのかと胸が痛む。
帰りたい。無性に家が恋しくなっていた。家に帰って、また彼らの声が聞きたいと思った。
吾輩はよしと決めて歩き出す。謝ろう。怒られればよいではないか。それで家族との仲が直るのならば安いもの。
そして、おすすめしてやろう。『有頂天家族』という、実にオモシロオカシイ小説があったのだ、と。
家族の絆を描く毛玉ファンタジー
桓武天皇の御代、万葉の地をあとにして、大勢の人間たちが京都へ乗り込んできた。
桓武天皇が王城の地をさだめてより千二百年。今日、京都の街には百五十万の人間たちが暮らすという。だが待て、しばし。
平家物語において、三分の一は狐であって、もう三分の一は狸である。そうなると平家物語は人間のものではなく、我々の物語であると断じてよい。
人間の歴史に狸が従僕するのではない、人間が我らの歴史に従属するのだ。という大法螺を吹き、偽史を書き散らす長老がいた。言うまでもなく狸である。
平家物語云々は毛玉の見た夢に過ぎないとしても、今日もなお、洛中には大勢の狸たちが地を這って暮らしている。
狸と人間はこの街の歴史をともに作ってきた――そう語る狸もある。だが待て、しばし。
王城の地を覆う天界は、古来、我らの縄張りであった。いかなる天災も動乱も、魔道に生きる我らの意のままである。国家の命運は我らが掌中にあり。
街を取り囲む山々の頂きを仰ぎ見よ。天界を住処とする我らを畏れ敬え。ということを傲然と言ってのける者がいた。言うまでもなく、天狗である。
人間は街に暮らし、狸は地を這い、天狗は天空を飛行する。平安遷都この方続く、人間と狸と天狗の三つ巴。それがこの街の大きな車輪を廻している。
廻る車輪を眺めているのが、どんなことより面白い。私はいわゆる狸であるが、一介の狸であることを潔しとせず、天狗に遠く憧れて、人間をまねるのも大好きだ。
したがって我が日常はめまぐるしく、退屈しているひまがない。
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