好きじゃなければよかったのに『盲目的な恋と友情』辻村深月


彼の腕が私を抱きしめる。間近に迫る彼の顔。煽情的に濡れた瞳がきらきらと輝いてきれいだった。私が好きになった瞳。私の親友が好きになった瞳。胸を突き刺す罪悪感が、こんなにも心地いい。

 

私が彼を好きになったきっかけ。それが何だったかと聞かれたのなら、彼女が彼のことを「好き」だと言ったのが、そもそもの始まりだった。

 

彼女は幼い頃からの親友。彼女がいない人生なんて想像すらできないくらいの、それこそ双子のようにいつも一緒に過ごしてきた無二の親友だ。

 

でも、私はその時、彼女が初めて知らない人のように見えたんだ。薄く桃色に染まった頬。少し潤んだ瞳。唇から漏れる吐息は熱っぽくて、いつもよりかわいく見えた。

 

彼女の視線の先にいたのは、バスケットボール部の男子だった。イケメンだって、クラスの女子が騒いでいたのを思い出す。彼女もそんな噂を私と一緒に鼻で笑っていたはずなのに。私は彼のようなタイプは苦手だった。

 

最初は嫌っていた。嫉妬していたんだ。ずっと仲良しだった親友が、まるで盗られたみたいで。だから、彼女が彼を見つめていた時、私はわざと気付かないふりをして彼女に話しかけて、邪魔をした。熱を失ったいつもの彼女の視線が私に向けられるたびにほっとしていた。

 

彼女から、彼のことが好きなのだと聞いたのは、いつのことだったか。協力してほしいという彼女のお願いを断れず、思わずこくりと頷いてしまったことを覚えている。

 

その時は思いもしなかったんだ。よもや、私が彼を好きになるなんて。彼女の好きな人として認識して視線で追いかけていたばかりに、気が付けば、私までもが彼のことを好きになった。

 

それからの苦痛に満ちた日々は、今でも思い出すと胸が痛くなる。恋か、友情か。彼女に協力すると答えてしまったばかりに。彼のことを好きになってしまったばかりに。私は板挟みの間で悶え苦しんだ。

 

恋と、友情。そういえば、辻村深月先生の作品に、『盲目的な恋と友情』なんてのがあったっけ。やけに生々しくて、ドロドロしているのが気に入っていた。私は蘭花か、それとも留利絵か。

 

蘭花は端正な容姿を持つ茂実と恋人となり、甘い幸せな日々を送る。しかし、そんな日々は長くは続かなかった。彼の背後にいる女性の影を、知ってしまったから。好きでなければ離れられるのに。自分を傷つけるだけの恋に、蘭花は溺れていく。

 

そんな彼女を隣で眺めているのは、彼女の友人である留利絵だった。蘭花の親友を自称し、固執している彼女は、茂実に苦しめられる蘭花を助け、支える。しかし、彼女のその狂的な執着は、最悪の結末を招くこととなる。

 

読んだ当時、私は「恋」という感情を知らなかったゆえに理解できなかった。蘭花がどうして自分を苦しめるだけの茂実から離れないのか、その理由がわからなかった。

 

でも、今ならわかる。「好き」という感情がどれほど重たいのかを。それは、今まで何よりも大切に思っていた「友情」すらも霞むくらいに。

 

「友情はどうして恋よりも軽くみられるのか」留利絵はそんな疑問を言っていた。今の私なら、その問いに答えられる気がする。

 

恋は蟻地獄みたいなものだ。もがけばもがくほど沈んでいく。自分ではどうしようもなくて、苦しくてたまらないのに、なぜか呑み込まれている私はそれを望んでいるんだ。だから、もっともっと深く身を沈めていく。

 

友情は、そんな私をじっと見つめている。もしかしたら、私を救おうと危険を顧みず手を伸ばしてくるかもしれないし、そのまま踵を返してどこかに行ってしまうかもしれない。でも、所詮はその程度。

 

親友の彼女のことは好きだった。大好きだった。この世の何を差し置いても守りたいくらい。私の片割れ。だからこそ、今の私の胸には喜びではなく罪悪感がある。自分は彼女を失うことになるのだろうという予感がする。それは間違いなく現実になるだろう。

 

それでも、私は彼を選んだ。いや、彼しか選べなかった。好きになってしまったから。恋に落ちてしまったから。裏切り。でも、仕方がないよね。快楽も喜びも恋ならば、苦痛も絶望もまた恋なんだもの。

 

 

たとえどれだけ愚かであったとしても

 

あの人が死んでしまったら、とても生きていけないと思った、あの幸せの絶頂の一日から六年が経ち、あの人は死んでしまったのに、私は、まだ、生きている。

 

生きて、あの人とでは叶わなかった純白のウエディングドレスを着て、あの人ではない彼に、誓いのキスのため、ベールを上げられるのを待っている。

 

彼が死ななければ、今日という日はありえなかった。「誓います」という、かすれた声がすぐ隣で聞こえて、見ると、あの人がいた。愛おしいと思う。この人を好きだと思う。

 

だけど、それはとても平穏な、春の海のような、どこまでも太陽に照らされ、祝福された、一点の後ろ暗さもない、愛情だ。

 

毎日が波風の絶えない、昼間でも夜のような、あの頃の激しい気持ちとは、何もかもが違う。穏やかな愛情など比べるべくもない。あの頃、私は恋をしていた。

 

茂実星近は、私に、この世の天国と地獄をいっぺんに運んできた。夏の高原に建つ、あの合宿所で、私たちは初めて出会った。

 

あれは、誰か他の、多くの女子が好きになるような人であって、自分が恋をする相手ではない――そう思っていた。茂実がまさか、自分の恋人になるなんて。

 

恋人、という二文字に、私の胸は今でも高鳴る。地獄を見た、と心底感じているのに、戻りたいかと問われたら、私は戻りたいと答えるのだろう。

 

戻って、そしてまた、茂実と、同じことを同じようにしたい、それが、どれだけ、愚かであっても。あの人が確かに、私の恋人であった五年間。

 

 

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