人間はどうなったら成熟したと言える?『人間にとって成熟とは何か』曽野綾子


幼い頃は早く大人になりたかった。小学生も高学年になると、大人になんてなりたくなくなった。壮年の頃は、子どものような人だと笑われていた。そして今、老人になった私は、赤子のように何もできなくなった。

 

「いい加減、大人になりなさい」と言われたのは、いつの頃だったろうか。ただ、その言葉は、まるで呪縛のように私の心臓を締め付けていた。

 

社会の不条理を知り、大人に対して絶望を抱いたのは高校生の頃だった。ピーター・パンを食い入るように見ていたのを覚えている。彼が私のところにも来てくれないものかと、願っていた。

 

放っておいても子は育つ。いくらそのままでいたいと思っていても、時の流れに容赦はない。身長が伸び、骨は軋み、喉仏が浮き出て、声は嗄れたように、身体中の毛が濃くなり、異性に興味を覚えるようになって、気が付けば私は「大人」と呼ばれる年齢になっていた。

 

だが、内面が劇的に変わったかと問われれば、そんな自覚はなかった。相変わらず私は大人になりたくなんてなかったし、牛乳が嫌いだった。

 

「大人になったねぇ」と親戚から言われると胸が苦しくなった。まるで世間を騙しているような気持になった。だが、今にして思えば、そう考えてしまう時点で、私は大人になったと言えるのかもしれない。

 

そもそも、「大人」とは何だ。人はいつになったら、どうなったら大人になるんだ。その疑問は、生涯を通して私の頭の中から離れることはなかった。

 

曽根綾子先生の『人間にとって成熟とは何か』を読んだのは、仕事で精神を病み、実家に戻ってきた二十代後半の頃だった。当時の私は、生涯の中でもっともこの疑問にとりつかれていた時期で、その答えを探し求めていたのだ。

 

果たして、その本は望んでいた本だったかどうか、今でも自信はない。だが、得るものはあったとは思っている。曽野綾子先生のエッセイである。彼女の人生観を綴っているものだった。

 

私は著者のことを知らなかったが、読んだ印象をそのまま言うなれば、「信心深いキリスト教徒」であると同時に、「独自の価値観を持った人物」である。

 

社会の常識となっているものよりも、自分の中の価値観を信じている印象を受けた。キリスト教に対する向き合い方も、その一端であるように思える。

 

先生は「このようにすれば人間として成熟する」とは述べていない。むしろ、先生自身も「成熟する」ということに迷っているように思えた。

 

世の中には善悪がはっきりと分かれているものはなく、苦難もまた必要なことであると割り切っている先生の人生観は、間違いなく人生を生き抜いてきたうえで磨かれて成熟してきた価値観なのだろう。

 

だが、社会に疑問を覚える彼女の価値観は、かつて「大人になれ」と私に言い放った男とは、明らかに異なる。ならば、「大人」とは、「成熟」とは、何か。結局、最初の疑問に立ち返ってしまうのだ。

 

幼い頃、「好き嫌いばかりしていると立派な大人になれないわよ」と言われた。「大人しい」という言葉は、静かで落ち着いている人物や動物に向けられる言葉だ。

 

「いい加減、大人になれ」と叱ってきた上司。「大人になったわねぇ」と粘ついた笑みを浮かべる親戚。高校生になれば大人か。親から自立すれば大人なのか。社会人になって働くようになれば大人になるのか。それとも。

 

壮年になった私は、「まるで子どもみたい」と妻に微笑まれた。「大人」になることが求められるのならば、「子ども」であることは悪いことなのでは。だが、妻のその言葉に悪意は感じなかった。

 

「子ども心を忘れない」というのは、果たしていいことなのか。それがいいことならば、なぜ周りの大人たちは子ども心を失うことをあんなにも勧めてきたのだろうか。

 

その疑問の答えは、老人となった今、ようやくわかったような気がする。私は家族の世話なしでは生きられない厄介者となり、赤子のような無力な存在になった。ただ違うのは、赤子は愛され、私は厭われている。

 

「大人」とは、自分以外の誰かにとって都合のいい存在のことだ。彼らは自分の思い通りにさせるために「大人」にさせようとする。そうして、私たちは知らぬ間に社会のために生きる「大人」になるのだろう。

 

ならば、「成熟」は。私が思うに、「成熟」は自分自身の解答を見つけることだ。社会の不条理を呑み込み、それを理解したうえで、社会の求める解答ではなく、自分の答えを見出すことを、「成熟」と呼ぶのではないだろうか。

 

人間は「成熟」することを目指して生きるのかもしれない。もちろん、そのことに気付かないまま、生涯を終える人もいるだろう。そして、気付いたとしても、「成熟」することを目指すのは、常に迷い続け、考え続けなければならない、苦しい道となる。

 

老年となり、残りの人生も風前の灯火となった今になって、私はようやく「成熟」できたのだろう。ずっと子どもの頃から抱いてきた大人への嫌悪と、社会への疑念。それがようやく、受け入れられたような気がして、穏やかな気持ちで私は目を閉じた。

 

 

成熟とは何か

 

人間は誰でも、自分で自分を救わなくては生きていられないのだから、どんな悪い境遇になっても必ず自分を生かす要素を見つけるものだ、と私は思っている。

 

たとえば病気になって入院するのは不運に決まっているのだが、「これも人生で必要な体験と時間だったのかもしれない」と考える。

 

私も年を取ったことについての意味のようなものは感じている。肉体的能力はそれぞれ明らかに落ちているだろうが、長く生きて来た分だけ、知的な蓄積が多くなるのは普通なのである。

 

もっとも私は、ほんとうの読書家とは言いがたかった。知識の蓄積の率は悪かっただろうと、少し引け目に思っている。言い訳をすれば、私は強度の近視だった。

 

そういうわけで私は、自分が期待したような読書家にはなれなかったが、その分、旅もし、世の中にも出ていったので、私は今この年になって時々驚くことがある。

 

ただし、その多くはくだらない知識だ。立派な学問的理論などわかっていたためしはない。しかしそれにしてもその件に関して、自分らしい体験や感じ方を持っているようになったのだから、やはり幸せと言うべきなのである。

 

そうやって、自分の「体験袋」の中に、ゴミにも似た知識や記憶がたくさん詰め込まれた実感を持つようになると、ひとつ見えてきたことがある。

 

それは、この世のことは、善でもなく悪でもなく、多くの場合、その双方の要素を兼ね備えているということだ。善だけの行為とか、悪だけの結果、というのはむしろきわめて稀であって、そういう純粋すぎる生き方・見方をする人と、私はついぞ仲良くなれなかった面はある。

 

 

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