演劇の世界を裏側から描く『シアター!』有川浩


 変身願望、というものがある。自分ではない他人になってみたいというものだ。

 

 

 自分の人生に徹頭徹尾満足しているという人に、私は今まで出会ったことがない。誰でも何かしら自分に対する不満を抱いているものである。

 

 

 たとえば、自分の左前の席に座るあの子は成績が良い。友達も多く、顔も可愛い。そういう羨望は、次第にあの子になりたいという願望を抱かせるのだ。

 

 

 男の子になりたい。生理がきついし、女子の人間関係は複雑で面倒くさい。男子の人間関係なんてカラッとしているし、力持ちになっても体型なんて気にする必要がない。

 

 

 女の子になりたい。力仕事なんて任されなくて済むし、女子の友だちなんて中良さそうだ。オシャレとかも今より存分に楽しめそうだし、化粧とかもしてみたい。

 

 

 隣の芝は青い、とはよく言ったもので、人は誰しも自分の持っていないものが素晴らしいものに見えてしまうのである。

 

 

 だから変身願望なんてものができる。自分という出来損ないの殻を脱ぎ捨てて、他人になってみたいという願望だ。

 

 

 しかし、現実ではその願望をかなえることはできない。だから、我々は創作の世界にその矛先を見出した。

 

 

 人助けをするかっこいいヒーローに、誰からも愛されるお姫様。創作の中では自分は何にでもなれるのだ。

 

 

 そして、それを紙上の文字や、スクリーンの上でなく、実際に自分がやってみるのが演劇である。

 

 

 演劇は、自分の変身を他人に見せるための芸術なのだ。

 

 

 江戸川乱歩先生の作品に『怪人二十面相』という作品があるが、役者はみんな怪盗のようなものである。百の顔を持ち、変幻自在に顔を変える魔術師だ。

 

 

 ああ、彼らがただの魔術師であったならばどれほどよかったろうに。結局、いくら仮面を被ろうとも、生憎と彼らは残酷な人間に根差した自分以外の何物でもないのだ。 

 

 

 生きていくには金がいる。しかし、表現者というのは成功する者なんてごく一部であり、多くは路傍の石として消えていく。

 

 

 演劇も同じだ。普通の生き方とは違う生き方を選択する以上、そこは修羅の道である。

 

 

 その世知辛さを強く感じたのは、有川浩先生の『シアター!』を読んだからだ。

 

 

 我々が普段見るのは、春川巧と彼の劇団「シアターフラッグ」が魅せる演劇である。

 

 

 魅力的なストーリーを紡ぐ脚本、物語の世界で生き生きと脈動するキャラクター。それらは舞台の上でもうひとつの世界を創り出している。

 

 

 そう、それはまさしく別世界だろう。しかし、その世界は舞台の上でしか顕現しないのである。

 

 

 「シアターフラッグ」は経営難である。経理はお粗末なもので、「楽しめればそれでいい」というスタンスであった。

 

 

 その財政は一般的な社会人の感覚を持つ司が見て絶句するほどだ。司は彼らに借金を貸し付けて、二年という夢の終わりを定めた。

 

 

 現実に生きる以上、我々が如何に別世界に憧れ、たとえ一時でもその世界を楽しもうとも、行き着くところは現実なのだ。

 

 

 現実は金がなければ生きていけない。それが全てだ。

 

 

自分ではない誰かに

 

 

「おお、ロミオ! どうしてあなたはロミオなの!」

 

 

 『恋におちたシェイクスピア』という映画を観たのは、大学の頃であった。フランス文学の講義で教授が放映したのである。

 

 

 『ロミオとジュリエット』、『ハムレット』、『リア王』、『マクベス』。演劇の界隈において、彼が遺した名作は数知れない。

 

 

 私は小説や映画などは好んで耽溺していたものだが、演劇ともなれば頓と興味が持てぬのであった。

 

 

 私が演劇、と呼べるかどうかはわからぬが、人前で演じる劇で記憶にあるものとすれば、小学生や幼稚園の頃にやった劇が精々であろう。

 

 

 小学生が先生から指示されてよくわからないままにやらされる、どことなく教訓的な演劇。今にして思えば、どうにも子供だましの体が抜けきらぬが、それもまた味があろう。

 

 

 幼稚園の頃にも何かしらの劇をやったはずなのだが、生憎と私にその頃の記憶はない。ぼんやりと『大きなかぶ』をやったことだけは覚えているが、何の役もやったとも知れぬ。

 

 

 だから、私の思い出の中でもっとも古い演劇は、臼井義人先生の『クレヨンしんちゃん』を基礎にしたものである。

 

 

 さて、演劇をするうえで、子どもにとって重要なことは何か。それは、誰が主役やヒロインなどの「おいしい役柄」を手に入れられるか、ということである。

 

 

 私のクラスには主役のしんのすけをやりたい生徒が三人いた。うちひとりが私である。結局、三人がそれぞれの場面でしんのすけを演じることになった。

 

 

 後にも先にも、私が主役を名乗り出たのはあの頃だけである。その頃の積極性は次第に埋没し、偏屈さと臆病さを兼ね備えた人間になっていくとは誰が予想できただろう。

 

 

 三年か、四年かの頃にやったのは『ドラえもん』を模した劇である。しかし、オリジナリティを追求して各々がよくわからない提案をした挙句、原形がほぼ残っていない有様となった。

 

 

 今になって改めて思うと、本当にムチャクチャな内容だったと思う。無理やり挿入された流行りのギャグ、その陰に隠れたストーリーのテーマ性、唐突に始まる面白みのない寸劇。

 

 

 まだしも先生が軌道を取った幼稚園の劇の方がよほどましかと言おうものである。しかし、なにぶん子どもなものだから、やっている本人たちからすれば何もかもが楽しかった。

 

 

 私はその中で、たしかスネ夫の役をやっていたと思う。たったの二年かそこらで、主役から一気に腰巾着にまで転落である。

 

 

 高学年の頃にやったのは、逆にきっちりとした台本に縛られた演劇だった。そう、これこそがちゃんとした演劇の形であろう。

 

 

 道徳の教科書に書かれているエピソードを演劇にしたような内容だった。障害者に対する差別はやめようね、みたいな。

 

 

 私はいじめる役であった。しかし、後に改心する役であった。永遠の腰巾着のスネ夫よりかは、少しはましになったのだろうか。憎まれ役ではあるけれども。

 

 

 私は幼稚園の頃からいじめられっ子だった。男子からも女子からもいじめられて、よく泣いていたような子だった。

 

 

 そんな私だったから、いじめっ子になるというのは不思議な感覚だったのを覚えている。

 

 

 自分では絶対になれない誰かになる、というのは、たとえ一時のことであっても新鮮な気持ちになる。それは、私のような演技下手の大根役者でもそうであろう。

 

 

 『世にも奇妙な物語』に『エキストラ』という話があった。その結末が脳裏に再生される。

 

 

 人生はひとつの長大な演劇で、我々は誰しも主役を演じている。その演劇を成功で幕を下ろすか、失敗で幕を下ろすか、決めるのは主役の演技次第なのだ。

 

 

解散の危機に見舞われた小劇団が現実の厳しさに立ち向かう

 

 ポケットの中で携帯が震えた。しまった、と春川司は内心で舌打ちした。クライアントとの打ち合わせ中だが電源を切るのを忘れていた。

 

 

 自宅は府中の古い一戸建てだ。その古びた家の玄関先に丸まっている人影があった。

 

 

 司が歩み寄った気配に顔を上げたその男は、司の顔立ちをやや女顔に振った優男だ。弟の春川巧である。

 

 

 巧は演劇にのめりこみ、中学高校と演劇部に在籍して、大学時代に仲間を募って自分の劇団を立ち上げた。

 

 

 しかし、卒業しても一向に就職せず演劇にかまけているうえ、何か金銭的トラブルがあるごとに巧は司に泣きついてくる。

 

 

 巧は脚本を書く能力と引き換えにしたのか、一般的な事務処理能力は非情に貧しい。どうやら、劇団に所属する半分以上の役者や制作スタッフが辞めてしまったらしい。

 

 

 話は二ヶ月ほど前に遡る。巧が座長を務める劇団シアターフラッグに入団希望者がやってきた。羽田千歳。彼女はプロの声優だった。

 

 

 プロである千歳が彼らの舞台を好きだと言ってくれたことで、評価に悩んでいた巧は思った。

 

 

 届くのならそこへ行きたい。彼女と同じ場所に立ちたい。追いつきたい。自分の芸でお金を稼ぐプロの世界へ。

 

 

 しかし、面白い演劇にするために登場人数を絞った巧の脚本は劇に出られることを求めていた劇団員たちの理解を得られなかった。

 

 

 その結果が半数以上の劇団員の離反である。

 

 

 司は巧に金を貸すことを了承した。しかし、条件付きである。その条件は劇団員全員の前で発表された。

 

 

 資金繰りを司が担当し、劇団が上げた収益だけで、二年のうちに三百万円を返済すること。それが彼の出した条件だった。

 

 

「守銭奴けっこう! 金は正義だ!」

 

 

 後に制作として『シアターフラッグの鉄血宰相』と呼ばれることになる春川司の、これが誕生の瞬間だった。

 

 

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