襲い掛かる不条理の恐怖『ペスト』カミュ


始まりはひとりの男だった。やがて、ソレはあっという間に広まって、世界を大きく変えてしまうことになるのだが、その当時はまだ、誰もその未来を知る者はいなかった。

 

「新型コロナウイルス」と呼ばれることとなったソレは、2年経った今でも我々の脅威として潜み続けている。

 

今でこそ表面上はある程度の落ち着きを見せているが、それでもかかっている人はいるし、命を奪われている人もいる。

 

すでに一時のコロナ恐慌ともいうべき混乱は過ぎ去り、我々人間はコロナの存在に順応し、コロナもまた、人間社会の中に一定の居場所を築きつつある。

 

コロナウイルスによる社会の変容と混乱の有様を眺めながら、私が思い出していたのは、カミュの『ペスト』という一篇の小説のことだった。

 

歴史上、人間は幾度も感染症の危機に晒されてきた。いや、その言い方は正確ではないかもしれない。今もまだ、感染症は過去のものではないのだ。

 

天然痘。インフルエンザ。コレラ。スペイン風邪。数々の感染症が多くの人の命を奪ってきた歴史の上でも、一層存在感を放つのはやはり、黒死病、いわゆるペストだろう。

 

日本ではあまりひどく影響したわけではないが、ヨーロッパではかつて凄まじいほどの死者を出すこととなった病である。鼠を媒介に広まり、肌が黒く壊死することから「黒死病」と呼ばれた。

 

身分問わず無差別に人の命を奪うその感染症は多くの人を恐怖に陥れ、さまざまな服を着た骸骨が描かれた「死の舞踏」や伝説「ハーメルンの笛吹き男」など、文化の題材にも多く挙げられた。

 

カミュの『ペスト』もまた、そのひとつである。物語は、医師リウ―が階段で一匹の死んだ鼠につまづいたところから始まる。

 

不審に思ったリウ―だが、その後街中の至るところで異常な死に方で命を落としている鼠が発見されるようになる。やがて、その被害は、人にも現れ始める。

 

リウ―は医師として手を尽くすが、患者の数はあまりにも多い。政府は感染を広めないために街を完全閉鎖することを決める。リウ―たち住民は死の街に閉じ込められることとなった。

 

脱出を図る者。少しでも人を助けようとする者。信仰に身を捧げて息絶える者。異常事態を謳歌する者。ペストは誰の区別なく襲い掛かる。

 

多くの人の命を奪ったペストは、やがて、前触れもなく終息に向かっていく。街の封鎖は解除されるも、亡くなった人々が帰ってくることはない。

 

ペストの災厄が過ぎ去ったことを人々が喜んでいる中、リウ―はまだ終わっていないことを綴る。それはやがて、再び人々の前に姿を現すことになるだろう、という言葉で物語は締めくくられる。

 

感染症による脅威。それは時として思い出されたかのように唐突にニュースに報道され、人々を騒がせる。リウ―の言葉の通りに。

 

ウイルスは新たに生み出されているわけではない。私たちはずっとウイルスとともに生きてきた。彼らがいなくなることは、決してないだろう。脅威は常に私たちの日常の下に眠っている。

 

今回のコロナウイルスの騒動は、その教訓を思い出させることになったのではないだろうか。

 

科学は発展し、私たちの文明は地球を壊しながら成長を続けてきた。すでに、かつてペストが流行った時代とは別世界の様相を為している。

 

しかし、それでも、私たちはコロナウイルスの脅威に対して右往左往するのが精々であった。治療薬も作ることができず、ワクチンをつくるのが精一杯。その間にも、多くの命が失われた。

 

私たちは文明の覇者として、すっかり世界を掌握しているかのように振舞っている。しかし、実のところ、私たちの日常は、吹けば飛ぶような脆弱なものでしかないのではないか。

 

私たちは常に自然という不条理の上に成り立っている。それを掌握し、予測することなど、私たちには不可能なのだろう。そのことを、痛感する出来事だった。

 

 

感染症の恐怖

 

この記録の主題をなす奇異な事件は、一九四※年、オランに起こった。通常と言うには少々けたはずれの事件なのに、起こった場所がふさわしくないというのが一般の意見である。

 

わが市民諸君にとって、その年の春起こった種々の出来事など、これを期待させ得るようなものは何ひとつなかったのであって、しかもそれらの出来事こそ、一連の大事件の最初の兆候ともいうべきものであったのである。

 

四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診療室から出かけようとして、階段口のまんなかで一匹の死んだ鼠につまずいた。

 

咄嗟に、気にもとめず押しのけて、階段を降りた。しかし、通りまで出て、その鼠がふだんいそうもない場所にいたという考えが浮かび、引っ返して門番に注意した。

 

同じ日の夕方、ベルナール・リウーは、アパートの玄関に立って、自分のところへ上っていく前に部屋の鍵を捜していたが、そのとき、廊下の暗い奥から、足元のよろよろして、毛の濡れた、大きな鼠が現れるのを見た。

 

鼠は立ち止まり、ちょっと体の平均をとろうとする様子だったが、急に医師のほうへ駆け出し、また立ち止まり、小さな鳴き声をたてながらきりきり舞いをし、最後に半ば開いた唇から血を吐いて倒れた。

 

 

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