人間社会の不条理を描く『異邦人』カミュ


 僕は思わずぞっとした。周りの彼らが僕に向ける、異常な視線に。まるで異邦人のようだ。こめかみを、一筋の汗が流れる。

 

 

 あれは、そう、数日前に読んだ小説、何だったっけ。ああ、そうだ、カミュの『異邦人』だ。思い出した。

 

 

 友人は、「このムルソーってやつ、よくわからんよな」と言って貸してくれた。けれど、僕は彼とはちっとも違う感想を感じたのだ。

 

 

 僕は、恐ろしかった。ムルソーが、ではない。彼を取り巻く社会が、恐ろしかったのだ。

 

 

 友人の問題に巻き込まれた挙句に、アラヴ人を撃った罪で逮捕されたムルソー。しかし、裁判で言及されていくのは、その罪の仔細ではなかった。

 

 

 なるほど、母親を亡くした葬式でも感情を見せず、その翌日には女と遊び、普段通りの生活を送る彼は冷たい人間だと思われてもやむを得ないのかもしれない。

 

 

 しかし、それは彼の命を奪うほどの重い罪なのだろうか。それを当然のように求刑し、認める社会こそが、私は恐ろしくて仕方がなかった。

 

 

 彼は悪人ではなかった。恋人のような付き合いをしているマリイからは愛され、彼を慕う人間も多い。

 

 

 事件を引き起こしたのも、友人であるレエモンの問題に協力するよう、彼と約束したからだ。

 

 

 論理的で、情に薄く、しかし、彼には彼のルールがあった。そして、それは、他の人とは違っていても、彼なりの情を持っていたのだ。

 

 

 僕はその友人に、自分が感じた感想をぶつけてみた。すると、彼は、異質なものを見る目で見てきた。それはまるで、あの裁判の傍聴席のように。

 

 

 ひそひそ。ひそひそ。視線を感じるようになった。嘲笑うような、あるいは怖れるような、そんな視線。友人は、いつの間にか僕から距離を置くようになっていた。

 

 

 ムルソーの罪を裁くはずの裁判は、彼の人間性を糾弾する場となった。彼はアラヴ人を撃った罪ではなく、彼自身の人間性そのものを罪とされたのだ。

 

 

 そのことに、誰も疑問を抱いていない。それを、誰もが当然だと思っている。そのことが、私には異常に思えた。

 

 

 異常なのは、ムルソーではない。社会が異常なのだ。異常な世界で、彼だけが正常に生きている。

 

 

 だからこそ、ムルソーは存在そのものを罪にされた。彼が正常だったから。ここでは、異常じゃないと生きることが許されない。

 

 

 視線が私を追いかけてくる。人の姿をした、社会そのものの視線が。狂ってしまった社会の監視の目が。

 

 

 僕は異常か。それとも、正常か。世界が異常だと知ってしまった僕は、それでも自分が異常な世界の一部であることに耐えられるのか。

 

 

 社会は不条理だ。何よりも不条理なのは、僕たちはそんな不条理な世界で生きていることだ。

 

 

 僕はムルソーに尊敬を抱いた。彼はそんな不条理の中で、自分自身を貫いた。自分を捻じ曲げた恥さらしの日を生きるよりも、戦うことを選んだ。

 

 

 彼が最後に抱いた願い。それこそが彼の答えだ。彼は社会の不条理を見た。そして彼は、その社会の一部ではなく「異邦人」としての最期を選び取ったのだ。

 

 

 社会の不条理を、太陽はずっと見ていた。社会がいくら歪もうとも、姿の変わらない彼こそが、ムルソーを本当に裁く裁判官だ。

 

 

 撃った理由を尋ねられた時、ムルソーは「太陽のせい」だと答えた。裁判の間も彼はずっと、太陽の視線を感じていた。

 

 

 僕はふと、空を見上げる。そこには、眩いばかりの太陽が僕を見下ろしていた。

 

 

 さて、友人になんと言おうか。僕は異邦人、彼は司祭だ。あれは間違いだったと弁解すれば、僕はまた社会の一員となる。

 

 

 愚かな社会に迎合するか、誇り高い異邦人であり続けるか。答えを出せない僕の背を、太陽がずっと見ていた。

 

 

異邦人の罪

 

 きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。

 

 

 養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。おそらく昨日だったのだろう。

 

 

 養老院はアルジェから八十キロの、マランゴにある。にじのバスに乗れば、午後のうちに着くだろう。

 

 

 ひどく暑かった。いつもの通り、レストランで、セレストのところで、食事をした。みんな私に対して、ひどく気の毒そうにしていた。

 

 

 養老院は村から二キロのところにある。私はその道を歩いた。すぐにママンに会いたいと思ったが、門衛は院長に会わなければならない、といった。

 

 

 家にいた時、ママンは黙って私を見守ることに、時を過ごした。養老院に来た最初の頃にはよく泣いた。が、それは習慣のせいだった。

 

 

 最後の年に私がほとんど養老院へ出かけずにいたというのも、こうしたわけだからだ。それに、また日曜日をふいにすることになるし。

 

 

 私は中へ入った。大層明るい部屋で、石灰が白く塗られ。ガラス屋根に覆われている。

 

 

 椅子と台が置かれていて、部屋の中央に、その台の二つが、蓋のしてある柩を支えている。

 

 

 門衛が棺のネジを抜こうとしたが、私は彼をひきとめた。「御覧にならないですか」というから、「ええ」と私は答えた。

 

 

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