万華鏡を覗くように不思議な宵山の出来事『宵山万華鏡』森見登美彦


 私は幼い頃、万華鏡というものを心底奇妙で不可思議なものだと思っておりました。

 

 

 万華鏡の仕組みは単純なものです。覗き穴のついた筒の中に、二枚以上の鏡と、ビーズや、色のついた紙とかを入れるだけ。

 

 

 覗き込むと、その中に入れた小さなそれらが鏡に映りこんで、なんともきれいな幾何学模様を描く、というもの。

 

 

 幼い頃は「すごい、すごい!」とはしゃぎまわったような子でも、仕組みを聞けば「なんだ、そんなものか」と思うでしょう。

 

 

 そして、それ以来、不思議な事にその子は万華鏡にはちっとも興味をなくしてしまうのです。

 

 

 それどころか、むしろ憎んでいるかのように忌々しく万華鏡を睨みつけたり見るのも嫌だとばかりに嫌うのです。

 

 

 私は万華鏡の先を取り外してみました。ぽろぽろと、小さなビーズが零れ落ちてきます。あの不可思議な世界は、たったこれだけで作り出されていました。

 

 

 子供だまし。いわゆるそうなのでしょう。子どもの頃はあんなにも楽しんでいた私が、成長した後でそれほどまでに万華鏡を嫌うのは、この万華鏡があまりにも単純だったからなのです。

 

 

 つまりは、そんな単純なおもちゃに騙された自分自身が恥ずかしく、そのために万華鏡が嫌いになったのかもしれません。

 

 

 あるいは、万華鏡の中のような不思議な世界が、実はハリボテだったことの失望なのでしょうか。

 

 

 そんな私がふと思い立って万華鏡を買ったというのは、我ながら不思議なことでありました。

 

 

「お前が万華鏡が好きだってこと、もう何十年もの付き合いになるが初めて知ったよ」

 

 

「いや、万華鏡なんて嫌いだけど」

 

 

 私がそう言うと、友人はこいつわけわかんねぇと言わんばかりの顔をしました。表情が読みやすいのは彼の長所です。

 

 

「じゃあなんで買ったんだよ」

 

 

「どうしてだろうね」

 

 

 彼はいよいよ呆れたような表情を見せ始めて、このままではおかしな人扱いされてしまうコトを察した私は、理由を考えてみることにしました。

 

 

「……最近、『宵山万華鏡』という本を読んだんだよ」

 

 

「ほう」

 

 

「とはいえ、それが理由かと言えば、そういうわけでもないのだけれど」

 

 

「おい」

 

 

 友人は文句でも言いたげに私を睨んできました。じゃあ何の関係もないじゃないかと言いたいようです。私は肩を竦めました。

 

 

 ええ、何の関係もありません。ただ、私が万華鏡に再び惹かれ始めたのは、あの物語を読んだからでしょう。

 

 

万華鏡の世界

 

 幼い頃、私たちは万華鏡を覗き込んでは、「すごい、すごい!」と言い合ってはきゃっきゃと喜んでおりました。

 

 

 しかし、今にして思えば私はどうして、彼らと自分が同じ光景を見ていると思っていたのでしょうか。

 

 

 もしかすると、その万華鏡の中にはまた別の世界が広がっていて、私たちは万華鏡という望遠鏡でその世界を覗き込んでいるのだとしたら。

 

 

 『宵山万華鏡』は京都の祇園祭の前日に開催される宵山の一日を舞台に、不思議な出来事に遭遇する六つの短編を描いた作品です。

 

 

 それらは一見何の関係もないようでありながら、実は密接につながっていて、全部が宵山にひそむ謎めいた存在、『宵山様』に集まっていく。

 

 

 森見登美彦先生は腐れ大学生を主人公とした滑稽で不思議な話が持ち味ですが、『宵山万華鏡』はそれらとは一線を画した物語になっていました。

 

 

 不思議で、どこか不気味な雰囲気は、先生の初期の作品である『きつねのはなし』を思わせます。

 

 

 万華鏡は回せば見える光景が変わっていきます。それは、この『宵山万華鏡』という作品そのものを表しているのでしょう。

 

 

 私は手持ちにある万華鏡を覗き込んでみました。そこには、色とりどりのビーズが生み出した子供だましの幾何学模様が映っています。

 

 

 私は万華鏡から視線を外して、深く落胆のため息を吐き出しました。

 

 

 私にはもう、幼い頃に見たあの美しい世界を、見ることができないのかもしれません。

 

 

 私が万華鏡の真実を筒の中から引っ張り出したその瞬間、万華鏡の中の世界は壊れてしまったのでしょう。

 

 

 幼い頃の私が思い出の中で万華鏡を手に取って、楽しそうに中を覗き込みました。「すごい、すごい!」ときゃっきゃとはしゃいでいます。

 

 

 喜色に溢れるその眼の中には、何人もの赤い着物の女の子が笑いながら走り去っていきました。

 

 

宵山に現実と幻想が交差するファンタジー

 

 彼女と姉の通う洲崎バレエ教室は三条通室町西入る衣棚町にあって、三条通に面した四階建ての古風なビルであった。

 

 

 迷うはずのない一本道であるにもかかわらず、彼女は用心深く、姉にぴったりと寄り添って歩いた。彼女は小学校の三年生、姉は四年生になる。

 

 

 扉を開いて中に入ると、ひんやりとした空気が彼女を包んだ。ロビーの正面には額縁に入った不思議な絵がかかっている。

 

 

 たくさんの提灯が輝く路地を描いた絵で、路地の奥には赤い浴衣を着た小さな女の子が一人いる。

 

 

 休憩時間になり、彼女はトイレに行きたくなった。姉についてきてもらって、教室から外へ出た長い廊下の奥に向かう。

 

 

 彼女がトイレから出てくると、姉は廊下の突き当りにある階段を覗いていた。両脇にはたくさんの提灯が並んでいる。すでに姉の足は階段にかかっていた。

 

 

 やがて彼女たちは赤い布のかかった大きな箱を見つけた。赤い布をめくりあげた時、彼女は暗い水の中でぎょろりとした目玉が動くのを見た。

 

 

 水槽の中には、まるで妖怪のような赤くてぶくぶくとした魚が浮かんでいた。大きさは西瓜ほどもあり、丸々と太っていた。

 

 

 二人が立ちすくんで魚を見つめていると、廊下の奥から声がした。彼女たちは慌てて逃げだした。

 

 

 練習が終わった時には午後五時をまわっていた。玄関の重い扉を二人で押し開けて、彼女たちは往来へ出た。

 

 

 彼女たちは烏丸通を歩いていって、やがて露店の隙間をすり抜ける人の流れにのって蛸薬師通を西へ入った。そこを抜けて室町通との四つ辻に立ってみれば、どちらを向いても人であった。

 

 

 蟷螂山を眺めて満足した姉が遅くならぬうちに帰ろうと言った時、彼女はようやくこの怖ろしい宵山探索行から解放されると思って安堵した。

 

 

 錦小路通を辿っているとき、彼女は笑いさざめきながら人混みを抜けていく女の子たちに見惚れた。その子らは華やかな赤い浴衣を着ていた。

 

 

 ふと我に返って、自分を取り囲む雑踏の中に姉の姿が見えないと気づいた時、彼女の心臓は痛いほど高鳴った。

 

 

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