一夜限りの特別な時間『夜のピクニック』恩田陸


 あれは、いつのことだったろうか。私は失くしてしまった思い出を手繰り寄せる。

 

 

 たぶん、あれは中学生くらいの頃だ。学校の、なにかのイベントだったのだろう。

 

 

 夜の校庭にテントを張って、クラスメイトの男女に分かれて寝ていた。その時に見た星がいつもよりきれいに見えたのを覚えている。

 

 

 夜の学校とか、どうしてだかわくわくすること、あるよね。あの時の私の感情もそんなものだったと思う。

 

 

 いつもは気にならないことがなんでも目に入って、クラスメイトとの他愛ない会話ですら楽しくて仕方がなかった。

 

 

 修学旅行だとか、イベントでの他の施設への宿泊だとかがそれまでなかったわけではない。

 

 

 しかし、その時ほど記憶に残っている星空はなかった。きっと、それほど楽しかったのだろうと思う。数少ない、楽しかった思い出のひとつだ。

 

 

 夜の学校はいつもよりも気分が高揚する。それは普段は昼しかいない学校に、夜にもなってクラスメイトと一緒にいるという非日常が感じさせるのだろう。

 

 

 恩田陸先生の『夜のピクニック』という作品を読んだ時に、記憶の中をよぎったのはその思い出だった。

 

 

 作中では「歩行祭」というイベントが行われている。生徒たちが二日かけて長い距離をただ歩くというものだ。

 

 

 ただ歩くだけなのに、どうしてこんなに特別なんだろうね。まさにその通りだ。

 

 

 きっと、それは、一生宝物になるからだ。思い出の、青春の一ページとして。あの頃をもっと楽しんでおけばよかったと、私は過去の自分を悔やんだ。

 

 

 気の合う友人と、他愛ない話をしながら過ごす。それがたとえ嫌いなイベントであったとしても、その嫌な気持ちさえも、後からすれば宝物なのだ。

 

 

 青春なんて、とひねくれてみても、そんな自分が紛れもなく青春の真っただ中にいる。

 

 

 しかし、その青春が一瞬のうちに過ぎ去っていくことを、彼らは思いもしないだろう。それはまさに、気がつけばいなくなっているのだ。

 

 

 過去の自分が私の傍らを通り過ぎていく。心底つまらなさそうな無表情で、しかし、それはどこか寂しそうにも見えた。

 

 

 私は振り返って手を伸ばすも、その陽炎は消えてしまっている。私は伸ばした手を下ろして、思い出の私に背を向けた。

 

 

 あの頃はもう帰ってこない。人生の中でもあの星空のように輝いていたあの頃は、いつの間にかセピア色に染まってアルバムの中に収められている。

 

 

過去を糧に未来へ

 

 高校を卒業するまでの私はコミュニケーションが下手だった。クラスメイトとの接し方がどうにもわからなかったのだ。

 

 

 そもそもの始まりは、小学生の高学年の頃。私は人間というものとの付き合いが途端に煩わしくなった時期があった。

 

 

 それまでは何事もなく話していた友人たちとの会話も減り、次第にひとりで過ごす時間が増えた。

 

 

 誰もいない薄暗い教室の窓から校庭で遊ぶ彼らの姿を眺めていたのを、今でも覚えている。自分が望んだことでありながら、どこか寂しかった。

 

 

 中学生になると、そのひとりになりたいという欲求は薄らいで人恋しくなったが、その頃にはもう手遅れだった。

 

 

 決して短くはない一人の時間は、私のコミュニケーション能力をすっかり退化させてしまったのだ。

 

 

 気がつけば、私はクラスメイトと満足に会話できなくなってしまっていた。人恋しさに溺れながら、ごまかすように図書館に通って本を読み漁った。『夜のピクニック』を読んだのもその時だったと思う。

 

 

 歩行祭のようなものがあれば、私の青春も少しは変わったものになっただろうか。

 

 

 いや、変わらないだろう。彼らの青春は彼らだけのもので、私の何もない青春もまた、私自身のものだ。

 

 

 その何もない青春が今の私を作っている。走り去っていった過去の私の影を追ったところで、陽炎をつかまえることはできない。

 

 

 前に進む。結局、私たちはそれしかない。タイムマシンなんてないのだから、過去に戻ることはできないのだ。

 

 

 とりあえず、一歩。過去の自分を悔やむなら、先にいるはずの自分の未来を、もうちょっと良い自分にしたいな。私はそう思って、未来へと足を進めた。

 

 

歩行祭の中で育まれる青春の一ページ

 

 晴天というのは不思議なものだ、と学校への坂道を登りながら西脇融は考えた。晴天に恵まれていると、それが最初から当たり前のようにも思える。

 

 

 後ろから思いきり肩をどついてきた戸田忍と話しながら坂を上る。膝カックンをしようとする気配を感じて、膝が完治していない融は慌てて逃げた。

 

 

 校門に向かう坂は、リュックサックやナップザック、もしくはいつものデイパックを背負って登校してきた白いジャージ姿の生徒でいっぱいである。

 

 

 忍は今年初めて同じクラスになった奴だが、とても馬の合う男だった。こそばゆい言葉だが、一対一の親友という感じがしたのだ。

 

 

 朝の八時から翌朝の八時まで歩くというこの行事は、夜中に数時間の仮眠を挟んで前半が団体歩行、後半が自由歩行と決められていた。

 

 

 前半は文字通り、クラスごとに二列縦隊で歩くのだが、自由歩行は、全校生徒が一斉にスタートし、母校のゴールを目指す。

 

 

 だから、自由歩行は、仲の良い者同士で語らいながら、高校時代の思い出作りに励むのが通例である。

 

 

 融は、今回は忍といっしょに二人でゴールしたかった。しかし、テニス部にも誘われており、今朝になってもまだ迷っていた。

 

 

「おっ、甲田と遊佐だ」

 

 

 忍がちらりと融を見るのがわかる。こいつ、疑ってるな。融は彼の視線に気づかないふりをしながらそう思った。

 

 

 根っからの軟派な文科系を自認している貴子にとって、一番耐えがたいのが暑さである。すでにげんなりした顔で振り返った貴子を、遊佐美和子の爽やかな顔が迎える。

 

 

 美和子は老舗の和菓子屋の娘で、今日び死語になりかかっている大和撫子。学年が進むごとに親しさは増して、明日の自由歩行は二人で歩くことにしている。

 

 

 ついに来たか、この日が。貴子は坂を降りながら考えた。高校最後の行事。彼女は眩しそうに空を見上げる。そして、あたしの小さな秘密の賭けを実行する日が。

 

 

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