残酷な愛の物語『ノルウェイの森』村上春樹


 ビートルズの『ノルウェイの森』が誰もいない部屋に流れている。私は広すぎるソファに寝転んで、ぼんやりとそれを聞いていた。

 

 

 二人で過ごした思い出が頭の中を駆け巡っていく。鮮やかな色彩のそれらが、色褪せてセピア色に染まっていくのをどこか寂しく思える。

 

 

 二人でテレビを見て、くだらない感想を言い合っていたり、彼の食器の洗い方が下手で、文句を言ったり。

 

 

 そんな他愛ない日常がこんなにも眩しい。今なら、食器の洗い方なんて何も言ったりしないのに。あの頃は永遠にこの時間が続くと思っていた。

 

 

 家が、とても大きく思える。二人掛けのソファの私の隣に誰もいないのが不思議だ。今までは当然のように暮らしていた家が、まるで他人のようによそよそしかった。

 

 

 ああ、なるほど、ここは二人の家なのだ。私は納得した。ここは二人の家であって、私だけの家ではないのだ。だから、ひとりでいる私を、家が家主だと認めていないのだろう。

 

 

 彼がいなくなって、時計の針はどれだけ進んだろうか。彼がいないのに私の時間が変わらず進んでいることが信じられなかった。

 

 

 いっそのこと、私の時間も一緒に止まってくれたなら、こんな思いを抱くこともなかったのだろうに。時間は生きている限り平等に進む。

 

 

 あの日からこの家の時間は止まってしまった。彼の時間が止まってしまったから。

 

 

 彼の時間が止まっているのに私の時間が止まっていないのが信じられなかった。静かな部屋の中に『ノルウェイの森』と、時計の時を刻む音だけが響いている。

 

 

 私は世界に置いていかれた。私は彼と一緒じゃあないと前に進むことはできないのに、彼は今、私の隣にはいない。手の届かない遠くへ行ってしまった。

 

 

 『ノルウェイの森』。村上春樹の小説にも、そんなのがあったな。私はそんなことを思い出す。

 

 

 キズキに置いていかれた直子も、こんな気持ちだったのだろうか。『ノルウェイの森』を聴きながら、目を閉じる。

 

 

 『ノルウェイの森』は彼が好きな作品だった。彼は村上春樹先生の作品が大好きで、私にもよく勧めてきた。

 

 

 私は彼の熱意に押されて少しだけ読んだけれど、なんだか合わなくてやめてしまった。

 

 

 しかし、今はどうも、無性に読みたくてたまらなくなっていた。私はソファから立ち上がって、彼の部屋へと向かった。

 

 

喪失

 

 村上春樹先生の作品に初めて触れたのは、中学生の頃に読んだ『海辺のカフカ』からだった。

 

 

 当時はあまりにも露骨な性描写に辟易した覚えがある。ストーリーも難解で、なんだかよくわからなかった。

 

 

 『1Q84』が発売されて学校の図書館に並んだときは、あまりにも話題になっていたものだから、じゃあ読んでみようかという想いから手に取った。

 

 

 たぶん、私が今まで読んだ先生の作品の中では一番おもしろかった本だ。とはいえ、『海辺のカフカ』も今読めば違うのかもしれないけれど。

 

 

 『ノルウェイの森』はその頃から気になっていた作品だ。しかし、結局、その当時は読むことはなかった。

 

 

 はばかりながら言うなら、私は村上春樹先生の作品があまり好きではない。ハルキストだった彼には悪いのだけれど。

 

 

 ストーリーが私には難解過ぎるのだ。話がちっとも入ってこないのである。だから、彼が先生のノーベル賞候補に熱狂していた頃も、どこか冷めていたと思う。

 

 

 しかし、いま改めて読むと、まるで音楽を聴いているかのようにストーリーが頭の中に入り込んでくる。

 

 

 それは石に水が染みこむかのように溶け込んで、私の一部となっていくのだ。私は夢中で読んで、最後のページまでめくると、また最初から読んだ。

 

 

 気がつけば、日が落ちていた。私は本を閉じる。瞬きした目尻から、ひとすじ、涙が零れ落ちた。

 

 

 今ならわかる気がするよ、君があの日、消えた理由。私は幻の中で背を向けて去っていく彼に、小さく呟いた。

 

 

「性」と「死」に向き合う、どこか虚しい恋愛小説

 

 僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機は分厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。

 

 

 飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。

 

 

 それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。そのメロディーはいつもとは比べ物にならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。

 

 

 僕は頭が張り裂けてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。

 

 

 心配してきたドイツ人のスチュワーデスに大丈夫だと伝え、彼女がにっこりと笑って行ってしまうと、音楽はビリー・ジョエルの曲に変わった。

 

 

 飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらを取り出し始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。

 

 

 僕は草の匂いを嗅ぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。

 

 

 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思い出すことができる。

 

 

 風は草原をわたり、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。歩きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた。

 

 

 記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていた時、僕はそんな風景にほとんど注意なんて払わなかった。

 

 

 僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運び込んでいた。まわりの風景に気持ちを向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。

 

 

 でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。

 

 

 そう、僕には直子の顔を今すぐ思い出すことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。

 

 

 彼女はその時何の話をしていたんだっけ? そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。

 

 

 記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことをすでに忘れてしまった。

 

 

 こうして記憶を辿りながら文章を書いていると、僕は時々ひどく不安な気持ちになってしまう。

 

 

 直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に訴えかけねばならなかったのだ。

 

 

「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」

 

 

 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

 

 

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