とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ。
夏目漱石先生の『こころ』の一文がふと頭の中によぎる。ああ、まったくその通りではないか、と私は胸の内に自嘲した。
私は陰にひそんで彼らの様子をじっと見つめていた。ひっそりとした校舎の裏側で、今まさに成就したばかりのひとつの恋を。
片や精悍な顔つきの男である。その如何にも男らしい顔つきからは想像できぬほどに彼が繊細で心優しいことを、私は知っている。
片や小柄な少女である。華奢な体躯は抱きしめれば折れてしまいそうで、身長のある彼の前に並ぶと、まるで猛獣に襲われる乙女のようだ。
しかし、彼女のかすかに俯いた頬は仄かに赤く染まっており、口元には美しい微笑みを浮かべている。
男はそんな彼女を見つめて照れ笑いをしている。頬がだらしなく弛緩しており、頬がやはり真っ赤に染まっていた。
不意にあげられた彼の視線が私を捉える。途端に、彼は笑顔をこわばらせた。幸福に満ちていた視線が驚愕と罪悪感に塗りつぶされていく。
私は彼らに背を向けて、その場所を立ち去った。
胸の内に彼らを映した光景がスナップ写真のように繰り返されている。私はそれをくしゃくしゃに握りつぶした。
『こころ』に描かれている先生のかつての友人「K」もこんな気持ちだったのだろうか、と私は思う。
私と彼がなぜ友人であるのか、多くのクラスメイトにはその理由がわからなかっただろう。
私は眼鏡をかけた、痩せ型の、見るからにひ弱な男であった。教室の隅で本を読んでいるようなのが常である。
対する彼は立派な体躯のスポーツマンであり、巨躯を怖れられることこそあれど、彼の繊細な内面を知れば必ずそのギャップにやられるのだ。
そんな彼は話し上手でもあり、クラスでも中心に位置する人気者であった。しかし、彼は多くの誘いを蹴って私とともに帰路につく。
私と彼は正反対の気質を持っていたが、意外と気が合ったのである。互いに親友として肩を組んで笑っていたものだった。
彼女は私が所属している部活の後輩である。彼女はやや大人しすぎる傾向があり、入部したばかりの頃は周りから浮いていた。
そんな彼女を気遣い、私から声をかけたのが始まりであった。私たちは部活の片隅で親交を深め合ったのである。
やがて、彼女に想いを寄せるようになっていた私は親友である彼にも彼女を紹介した。思えば、それが全ての過ちであった。
彼女と彼はあっという間に仲良くなった。私を介さず、二人で会うことも多くなっていたという。
彼は私の彼女に対する恋心を知っていた。そして、自らも抱いてしまった恋心に葛藤した。苦悩の末に、彼は私に彼女が好きだと宣言してきたのである。
彼の誠実さは自分の裏切りを私に黙っていることを許せなかったのだ。私はそれを聞いて、どうこうとも答えることもできず、無言のうちにその場を辞した。
そして、今日、彼は彼女に告白し、彼女は頷いた。私はその様子を目をそらさずに陰からすべて見ていた。
私を捉えた彼の瞳が罪悪感に染まるのを見て、私は密やかに暗い喜びを覚えた。誠実な彼が私のことを気に留めぬことができるはずがない。
もう私は彼らを友人として扱うことはできないだろう。私はこの瞬間、ひとりの親友と好きだった女性を失ったのである。
苦しめ。苦しめ。私への罪悪に。いくら神聖であろうとも、私はお前たちを許さない。私はほくそ笑む。それはきっと、この上なく醜悪な笑みであったろう。
彼は罪悪を犯した。しかし、私は罪すら冒せない臆病者なのだ。笑みを浮かべる私の頬に、一筋の涙が伝った。
わたしと先生の出会いと別れを描いた三部作の名文
わたしはその人を”先生”と呼んでいた。だから、ここでも先生と書かせていただく。その方がわたしにとっては自然だからである。
わたしと先生が出会ったのは鎌倉であった。海水浴をしていたのである。わたしは彼を尊敬する年長者として先生と呼んだ。先生は苦笑していた。
それ以来、先生とわたしは交流を持つようになった。先生の家に入り浸るようになるのに、そう時はかからなかった。
先生は厭世的な人であった。世間との関わりを断ち、先生の家を訪ねる人は私を除けば二、三人が精々であった。
先生は仕事を持っていない。にもかかわらず、先生の生活からは経済的な困窮を一切感じられなかった。
先生は孤独な人である。先生とともにいるのは先生の妻だけであった。二人は理想的な夫婦のようでありながら、その間には何かが横たわっているように見えた。
先生の妻は美しいひとであった。しかし、わたしにとってはあくまでも先生についてくる要素であり、先生の妻に対してはそれ以外の感想を持たなかった。
二人の間にある何かとは、その姿は判然としない。先生の妻は自分に不満があるのかと先生に訴えたが、先生は己が悪いのだと言うばかりであった。
その何かには、先生が毎月のように通う墓が関係あるらしい。しかし、その墓に誰が納められているのか、先生が頑として口を開こうとはしなかった。
親族かと聞いてみたが、先生は首を振るばかりである。先生は親族との関わりを断絶していた。
先生は地位のある人間というわけではない。しかし、私にとっては大学の講師の話よりも、先生の講釈を聞いていた方がよほど有意義であった。
先生は生まれついての悪人がいるのではなく、普通の人間が突如として悪人に変貌するのだと言った。
そのきっかけは金である。金が人間を悪人にするのだと先生は言ったのだ。わたしは少しの失望を感じたことを覚えている。
また、先生は恋愛は罪悪であると言った。それでいて神聖なものであると言った。当時の私はその意味を理解できなかった。
私が病床の父を置いて電車に飛び乗ることになったのは、先生の寄越した長い手紙のためである。
それは先生が恐れた罪の過去の告白であり、先生の遺した最後の手紙であった。
価格:407円 |
関連
三大奇書の一冊! 幻想的な雰囲気が漂うアンチ・ミステリ『虚無への供物』中井英夫
氷沼家を舞台に巻き起こる事件。開かない密室。鳴動する運命という名の恐怖。謎を解くために四人の探偵は四つの推理を持ち込んだ。
幻想的な怪奇ミステリが好きな貴方様におすすめの作品でございます。
新装版 虚無への供物(上) (講談社文庫) [ 中井 英夫 ] 価格:880円 |
親の金で気ままに遊んでいる代助は仕事に失敗して戻ってきた友人の平岡と再会する。彼の金の工面をしているうちに、代助は彼の妻である三千代に心惹かれていく。
恋の葛藤に悩む貴方様におすすめの作品でございます。
価格:506円 |