片想いの苦悩『若きウェルテルの悩み』ゲーテ


 彼女は私の全てだった。ならば、そのすべてが失われたとき、私という存在には何が残っているのだろうか。

 

 

 友よ、聞いてくれ。私は恋をした。硬派を気取っていた男が何を言うかと思うかもしれないが、これから話すことに偽りはない。

 

 

 相手は白いワンピースがよく似合う、細身の、私よりも二つ、三つ下の女性だ。淑やかで、今時には珍しいくらいに謙虚だった。

 

 

 彼女は地元の名家の令嬢である。彼女と初めて出会ったのは、近所で開かれたパーティーだった。

 

 

 パーティーといっても格式ばったものではなく、ただ暇な大人が集まって飲み食いするだけのようなカジュアルなものだ。

 

 

 荒々しい男たちや、化粧っけの強い女性たちの中で、壁際に座った彼女の周りだけが輝いているかのようだった。

 

 

「やあ、楽しんでる?」

 

 

 私が話しかけると、彼女は苦笑した。どこか困ったような笑みだ。しかし、私に困っていたわけではなく、彼女は自分自身に困っていたらしい。

 

 

「ええ。ですが、こういう場はなにぶん初めてなもので。どうすればいいやら、わからないのです」

 

 

「なあに、彼らは何も考えていないのです。だから、あなたも何も考える必要はありません。ただ、気の向くままに振舞えばよいのです」

 

 

 ほら、肩の力を抜いて。気楽にやりましょう。私がそう言うと、彼女は言われた通りに肩の力を抜く。

 

 

 途端、張り詰めたような、さながら生まれたばかりの女神を思わせる冷然とした美しさはなりをひそめ、気高い女貴婦人のような清廉の美しさを醸すようになった。

 

 

「ありがとうございます。おかげで、少し楽になれました」

 

 

 おお、友よ。その時の私の感情を、どんな言葉で表現し得ようか。彼女の微笑みは、まるでニンフのように私を妖しく手招きするのだ。私はそれに抗う術を持たなかった。

 

 

 これが私と彼女の出会いだったのだ。この瞬間、私は彼女のものとなり、彼女は私のものになった。

 

 

 私の世界は全て彼女のためとなり、私の世界には彼女しかいなくなった。その変革は、まさしく瞬きの間に一瞬で行われたのだ。

 

 

 なあ、友よ。恋をするというのは、なんと素晴らしいことであろうか。

 

 

 今までの私の世界はモノクロで、白と黒の、色のない世界だった。全てのものは味気なく、砂時計の砂が落ちていくように、時間が静かに過ぎていくだけの人生だった。

 

 

 しかし、彼女と出会ってから、世界に色が溢れた。鮮やかに色づき、私の人生は華やいだ。

 

 

 まるで生まれ変わったかのようだった。誰かに恋をするということは、こんなにも幸せなことなのだということを、私は今、初めて知ったのだ。

 

 

恋が終わった時

 

 友よ、筆を執るのは久しぶりのことになる。というのも、君には話しておこうと思ったからだ。

 

 

 前に手紙を書いたのはいつだったろうか。随分と前になってしまったかもしれない。

 

 

 あの頃の私自身を、今の私はまるで思い出すことができないのだ。すでにあの頃の私と今の私はまるで別の存在で、あの頃のようになれと言われても無理だろう。

 

 

 彼女、そう、彼女のことだ。私は今でも彼女のことを愛している。彼女が私の世界の中心であり、私は彼女のものなのだ。

 

 

 しかし、彼女は私のものではなかった。彼女の世界の中心にいるのは私ではない男で、しかも、彼女はその男のものだった。

 

 

 彼女には恋人がいたのだ。しかも、私よりも逞しく、私よりも聡明で、私よりも誠実な、非の打ちどころのない男だ。

 

 

 私と彼は友人だった。そして、その関係は今でも続いている。虚勢でもなんでもなく、私は胸を張って彼を友人だと断言できるだろう。

 

 

 そう、友よ、君のことだ。あるいは、実に魅力的な君の恋人からはすでに私の話を聞いているだろうか。

 

 

 私は君の恋人に懸想していたのだ。そうとも、これは罪の告白だと言える。だが、安心してほしい。彼女には指一本とて触れていないし、彼女には一切の不義はない。

 

 

 私はあくまでも私の中でひとりの女性に恋をし、そしてその女性の愛する相手が我が敬愛する友だということを知って絶望した。すべて、私が勝手にしていることだ。

 

 

 君の女性は実に美しく、そして一途だ。君のことを心から慕い、君にだけその清らかな想いを向けているのだ。

 

 

 そして、友よ、君自身がどれほど素晴らしい人格者であるか、私は知っている。誰よりも、ともすれば彼女よりも、私は君の高潔を知っているのだ。

 

 

 幸いだったのは、私が取り返しのつかない衝動に溺れるよりも先に、その事実を知ったことだろう。おかげで、私はただの愚か者でいられた。

 

 

 私は友を裏切った裏切り者ではない。その事実は、泥中に浮かぶ蓮の花のように、私の見出した唯一の救いである。

 

 

 無論、言うまでもないことだが、心優しい君の、そして彼女のことだ。これからの生活に無用なしこりを残したくはないから、あらかじめ伝えておくとしよう。

 

 

 どうか、私の結末に何の罪も感じるな。私はただ、私自身を救うために幕を引くのだ。

 

 

 今ならば、あの哀れなウェルテルの苦悩も、私にはわかる。恋に破れた程度で自ら命を絶つなど愚かしいと、かつての私は批判しただろう。

 

 

 しかし、それは愚かではなく、必然なのだ。恋は盲目とも言うが、違う。恋した相手が輝かしくて、他のものが目に入らなくなるのだ。

 

 

 ならば、その光がなくなればどうなるか。君は太陽がない世界でも、なお生きようとするだろうか。

 

 

 色づいた世界を一度知ってしまったこの私の目は、再びモノクロしかない世界を見るなんて耐えることはできなかった。

 

 

 友よ、君と彼女の道行く先に、限りない幸福のあらんことを。もう二度と、我々が会うことはないだろう。

 

 

手紙に綴られるひとりの青年の恋の結末

 

 どうしてぼくが手紙を書かなかったかって。つまり結局こうなのさ、ある知り合いができたんだ、ひどく大切な。

 

 

 天使、かな。陳腐だ、陳腐だ、誰だって好きな人をみんなこういうからね。でもぼくには、その人がどんなに完全か、なぜ完全かは話せないんだ。

 

 

 こんなふうじゃ、いつまで経ったって君にはなんにもわからないね。さあひとつ、努力して事細かに話してみよう。

 

 

 ぼくらの若い連中が郊外で舞踏会をやろうと言うのでぼくも異存なく参加した。

 

 

 ぼくは平凡な娘さんを踊りの相手に決めたんだが、ぼくのパートナーとそのひとのいとこを連れて催しのある場所へ出かけていく。

 

 

 その途中でシャルロッテ・S……をさそうということに話が決まった。その人はきれいなお方らしいが、婚約済みとのことだった。そう聞かされたって、ぼくは別になんということもなかった。

 

 

 ぼくが馬車から降りると、女中が門のところへやってきて、お嬢様はただ今すぐお見えになりますからという。

 

 

 庭を突っ切って、玄関に足を踏み入れると、今まで見たこともないなんとも微笑ましい光景にぶつかったのだ。

 

 

 玄関先の人間に、二歳から十一歳までの子どもたちがわいわい言っていて、その真ん中に姿の良い娘さんがひとりいる。

 

 

 ぼくは月並みなお愛想を口にしたが、なにしろそのひとの姿、声音、振る舞いにすっかり心を奪われてしまっていたから、その人が部屋の中へ駆けていったときになってやっと、どうやら我に返った始末なんだ。

 

 

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