世の中には不思議なことがいくつも起こる『コロナと潜水服』奥田英朗


コロナが流行り始めた頃、テレビのインタビューで、ガスマスクをつけた男が答えていたのを見て驚いた。当時は「まるでコスプレのようだ!」と面白く思ったものだけれど、今はもう、笑えなくなってしまった。

 

かつて西洋の歴史の中にいたという鳥型のマスクをつけたペスト医師や、『風の谷のナウシカ』にあるようなガスマスクが不気味に思える時代もあった。ただ、彼らとて好きでつけているわけじゃなく、感染を防ぐための処置のひとつだ。

 

今までフィクションでしか見たことがなかったその世界に、今や現代社会が片足を突っ込みかけている。それも、ここ三年という短い間だけでこうまで変わり果てたのだ。

 

そう思えば、テレビのインタビューを受けていたガスマスクの彼は、ある種の慧眼を持っていたということだろう。姿勢はともかくとしても、彼の危機意識の僅かでも見習っておけば、と、今となってはもう遅いけれど。

 

社会情勢を反映するのにも相応の時間がかかる小説などの本の中にまでコロナが出てきた辺り、いよいよこのパンデミックも長くなったものだと感じてしまう。

 

奥田英朗先生の『コロナと潜水服』という作品は、日常の中にそっと起こる不思議な出来事を描いたいくつかの短編集なのだけれど、その中のひとつ、タイトルにもなっている『コロナと潜水服』という話を思い出した。

 

描いているのは、コロナが流行り始めて、まだ国民がそれなりの危機意識を持っていた頃の社会らしい。五歳になる息子は、奇妙な能力を持っていた。

 

それは、コロナウイルスを察知する力である。息子が突然血相を変えて警告を発したり、近づかなかったりした時、どういうわけか、必ずその場所でクラスターが起こるのだ。

 

そのことに気付いた康彦は、息子の言葉に従うことで家族の感染危機を幾度となく回避した。しかし、今度は彼自身が仕事の取引先でコロナウイルスをもらってしまう。

 

息子が近づいてこなかったことで、彼はそのことに気が付いた。そして彼がどうしたかと言えば、なんと感染を防ぐために潜水服を着て生活をするのである。

 

一見笑い話のようにも思えるけれど、今や東京で毎日何千もの感染者が出ている現代では、むしろ皮肉のようにも響いてくる。

 

作中で、周りにコロナを移さないという配慮から潜水服に身を包む選択をした彼を、子どもたちや周りの人たちは遠巻きにし、笑っていた。

 

でも、それこそが、今の現実にまでコロナを悪化させた原因だったんじゃないのだろうか。私たちは日常が壊れることも承知で、もっと真剣に向き合うべきだったのかもしれない。

 

ガスマスクの彼と同じように、現実にコロナ対策で潜水服を着込んだ男が現れたら、きっと笑っていただろう。だが、その笑っていた人たちの意識こそが、コロナを媒介した元凶なのである。

 

かつて流行した感染症はいずれも、社会を変容させるほどの影響力を持っていた。感染症の危険性を、私たちは知ることができたはずなのだ。学ぶことを怠った結果が、今の時代であるように思う。

 

現実にコロナを察知する息子のような子どもがいたなら、今の世は生きにくいに違いない。彼はきっと、「一歩も外に出ないで! 扉も開けちゃダメ!」と言うだろうから。

 

 

日常にそっと紛れる非日常

 

五歳になる息子・海彦が不思議な能力を持っているらしいと気付いたのは、ここ数週間のことである。新型コロナウイルスという感染症が、いかにも発生しそうな国で突如発生し、瞬く間に世界に広まったため、人類は外出禁止もしくは自粛という初めての生活様式を強いられていた。

 

そんな中、三十五歳の会社員・渡辺康彦も、とくに用がないため、会社から在宅勤務を命ぜられていた。日がな一日家にいてテレワークに勤しむ中、息子がある日突然、「バアバにスマホして」と言い出したのである。

 

康彦は気圧された形で実家にテレビ電話をかけた。電話に出た母は「海彦クン、元気?」と問いかけたが、息子がそれには答えず、「バアバ、今日はお出かけしちゃダメ!」と、大きな声で呼びかけた。

 

「えっ、何? 何の話? 康彦、なんかあった?」

 

「さあ、わからん。海彦が突然、バアバにスマホしてって言うで、それで電話したんやわ」

 

「ねえ、バアバ! 話聞いて! 今日は出かけちゃダメ!」

 

康彦を押しのけ、息子が大声を上げた。

 

「おかあさん、今日はどこか出かけるの?」康彦が聞いた。

 

「うん。長良のスポーツジムのレッスン室を借りて、コーラス・サークルの練習があるでね」

 

「それ、やめた方がいいんじゃない」

 

「わかった。海彦クンが言うなら聞いたるわ」

 

なんとなく息子が言い負かした形になり、母は外出を取りやめた。そんなやりとりがあった翌週、母が参加するはずだったコーラス・サークルから新型コロナウイルスの感染者が出た。さらには参加者の家族からも感染者が多数出て、クラスターが発生した。

 

「海彦クンが止めてくれなんだら、おかあさん、コロナに罹っとったわ。でも、なんで海彦クン、わたしが出かけることわかったんやろうね」

 

「偶然なんやないの?」と康彦。

 

「ううん。タイミングが良すぎる。だって一時間電話が遅かったら、おかあさん、出かけとったもん」

 

康彦は、オカルトめいた想像を抱いたのも事実だった。バアバにスマホして、と叫んだ息子の表情は、何かに取り憑かれたように、真剣そのものだったのだ。

 

 

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